謎多き女神 豊受大神

   

 

 

 伊勢神宮を初めて訪れた際に豊受大神(とようけおおかみ)を祀る外宮(げくう)の高札に気がついた。

 そこには「雄略天皇の御代に丹波の国から天照大神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)としてお迎え申し上げました」と書かれてあり不思議に感じたことを覚えている。

(高札に書かれている「丹波」とは和銅6年に丹波、丹後、但馬に分かれる以前の国名としての「丹波」であるから、豊受大神は「丹後の女神」と呼んで差し支えないだろう。)

 

 豊受大神が伊勢に遷座される経緯については『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』や『豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんぎ)』に書かれている。 

 天照大御神雄略天皇(第21代天皇)の夢に現れて「一所にのみ坐せば甚苦(いとくるし)」、また「大御饌(おおみけ)も安く聞食きこしめささず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神(みけつがみ)、等由気大神(とゆけおおかみ)を、我許あがりもが」と教え諭されたとある。即ち、天照大神自身のお言葉により「食物の神」である御饌津神(みけつがみ)としての豊受大神が丹後の「比治の真名井」(ひじのまない)から呼び寄せられたとある。

 

 皇祖神を祀る伊勢神宮が日本で最高の崇敬を受ける神社であることは言うまでもない。

 伊勢神宮では皇祖神である天照坐皇大御神天照大御神)を祀る内宮(ないくう)と衣食住の守り神である豊受大御神の外宮を併せて祀る。

 しかしなぜ、最高神である天照大神の元に丹後の女神である豊受大神が祀られているのだろうか?

 また内宮より先に外宮を拝する「外宮先祭」が行われるなど外宮の豊受大神に対して特別な崇敬が払われている点も気にかかる。

 

 豊受大神については不明な点が少なくない。

 丹後の祖神といっていいほどの存在でありながら不明な点が多すぎるのである。豊受大神は偉大にして謎多き女神といえる。

 

 舞鶴では最も社格の高い大川神社を筆頭に鹿原の阿良須神社(あらすじんじゃ)が豊受大神を祀っている。また田口神社、三宅神社、原神社など舞鶴各所に豊受大神を祀る神社が見られる。

 丹後国に属した加佐郡与謝郡竹野郡、中郡、熊野郡に大変な数の豊受大神とその同系の神が祀られていた。

 豊受大神は食物、穀物の女神であると考えられる。また保食神(うけもちのかみ)や稲荷神も同様に穀霊神、食物神の意味を持つと考えられることから、穀霊神、農耕神、食物神という共通点から稲荷、保食神などを豊受と同系の御饌津神(みけつがみ)と見ると丹後には大変な数の御饌津神の祭祀が行われていることになる。

 今日、豊受大神が丹後の女神であり、丹後の祖神的存在であることを意識されることは殆どないといって良い。そのことは少し残念な気がする。

 

 

 「丹波」(たんば)の語源となったのは「田庭」(たには)という言葉であったとされる。

 京丹後市峰山町には豊受大神丹波で稲作をはじめられた半月形の「月の輪田」、籾種をつけた「清水戸(せいすいど)」があることから、その地が田庭(たにわ)と呼ばれ、田庭が「丹波」(たんば)の語源となったという説がある。豊受大神の存在が丹波、丹後、但馬のルーツになった可能性があるのである。これほど重要な豊受大神であるが「古事記」には記述がなく「日本書紀」には僅かに一行の簡単な記述があるのみである。

 

  伊勢神宮における御饌津神(みけつがみ)とはいかなる存在であろうか。

  天照大御神の御饌都神(みけつかみ)として鎮座して以来約1500年、外宮の御饌殿で一日に2度、朝と夕方に神饌を奉納することが続けられている。これは「日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)、あるいは「常典御饌」(じょうてんみけ)とも呼ばれる。

 

 私達も日常的に神仏に食物などを供えることがあるがそれらからの類推で豊受大神の役割を軽んじてはならないと思う。

 新嘗祭(にいなめさい)とは天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である。また天皇即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭(だいじょうさい)という。新嘗祭大嘗祭)は宮中儀式のなかでも最も重要なものとされる。神前に食べ物を供えること、神前に供えられた食物を共食するということ自体に宗教的(呪術的)な意味があると思われる。天皇が各所の食物を食べることはそれらの食べ物を供した各所に権威を与えるものであると同時に天皇が各所を統べることを象徴していたのではないかと考えられる。また天孫降臨では天照大神天孫に種籾を授けることから稲作と皇室の関わりは大変に深い。

 

 

 

   豊受大神と羽衣伝説 

 

 豊受大神の出自は標高661メートルの高山である磯砂山(いさなごさん)に天下った天女だったされている

 磯砂山の山頂には美しい天女のレリーフが置かれ『日本最古の羽衣伝説 発祥の地』と記されている。

 

 最古の羽衣伝説とはいかなるものであろうか。「丹後風土記」に記された羽衣伝説の内容は概ね次のような内容である。

 

磯砂山の山頂に舞い降り羽衣を隠されて天に帰れなくなった天女老夫婦の子として引き取られる天女は万病に効く酒造りにたけていたため老夫婦は裕福となる。しかし老夫婦は天女を追い出し天女は流浪の末に奈具(なぐ)の郷にとどまる。天女は此の地で豊宇賀能売命とようかのめのみこととして奈具神社に祀られた

 

 

 

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

  • 作者:筑紫 申真
  • 発売日: 2002/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

 筑紫申真は「アマテラスの誕生」のなかでアマテラスが天つカミとして、日、月、雷、風などの自然現象を指すとして、そのカミが示現する(天(あま)降(も)り)ためのプロセスを次のように述べている

 

 まず神は舟にのってかけおりて、めだった山の頂上に到着します。それから山頂を出発して、中腹を経て山麗におりてきます。そこで、人々が前もって用意しておいた樹木(御蔭(みあれ)木(ぎ)とよばれる)に、天つカミの霊魂がよりつきます(憑依)。人びとは、天つカミのよりついたその常緑樹を、川のそばまで引っぱっていきます(御蔭(みあれ)引き)。

川のほとりに御蔭木が到着すると、カミは木からはなれて川の流れの中にもぐり、姿をあらわします(幽現)。これがカミの誕生です。このようにして、カミは地上に再生するのです。このような状態を、カミの御蔭(みあれ)御(み)生(あれ))とよんだのです。そしてカミが河中に出現するそのとき、カミをまつる巫女(みこ)、すなわち棚(たな)機(ばた)女(め)は、川の流れの中に身を潜(くぐ)らせ(古典はこのような女性をククリヒメとよんでいます)御(み)生(あ)れするカミを流れの中からすくいあげます。そして、このカミの一夜(ひとよ)妻(づま)となるのでした。これはむかし、日本の各地で、毎年一度ずつ定期的に、もっともふつうにおこなわれていたカミの出現の手続きでした。(「アマテラスの誕生」より)

 

 

神を迎える神聖な乙女が同時に織女でもあったことは重要である。

天照大神が天岩屋に隠れる原因となったのは須佐之男命(すさのおのみこと)が神聖な機織りの乙女(巫女)を死に至らしめたことによる。(この巫女は天照大神自身であるともいわれる)

 

羽衣伝説は神が天(あま)降(も)りするプロセスを反映していることが明らかである。

  池で水浴をしたとは池に依りついた神を水浴を通じて巫女に移すことであり、羽衣とは巫女が織女であったことを意味していたにちがいない。

 

 

 もうひとつ重要な点として磯砂山に降り立った神とは、かって彼方の海上から船で来航した異邦の人々の投影ではないかと考えられることである。 天(あま)と海(あま)が同音であることは興味深い。

 

 彼方の海上より来航せし人々は必ず、海岸近くの高山を目標として到来した。高山は航海上の目印であっただけでなく、航海の安全を祈願する場所であったはずである。想像を逞しくすれば長い航海の末に来航した人々は自分達を導いてくれた高山に上ってなんらかの宗教的儀式、航海への庇護に対する感謝をささげ、さらに土地の神々、土地の人々との融和の儀式を行ったのではないだろうか。

 

 

   豊受大神は酒の女神である

 

 地上に留まった天女は万病に効くという酒を作り、養父を富み栄えさせた。

 豊受大神の酒は単なる嗜好品というよりも不老長生の特別な薬効をもっていたと考えられる。

 

 丹後には不老不死に関する伝承が数多く存在する。代表的なものは次の4つと考える。

 

1 浦島太郎と竜宮の物語

2 人魚の肉を食べて八百年生きたと言われる八百比丘尼

3 丹後には日本海側で唯一徐福伝が残されていること

 4 常世の国にでかけて非時香葉(ときじくのかくのみ)を持ち帰った田道間守(たじまもり)

 

 

 こうした不老不死にまつわる伝承の多さからも天女(豊受大神)の造った酒に特別な力があったことは重要である。

 

 当時の酒は口嚼酒(くちかみのさけ)であったと考えられている。

 口嚼酒は生米を噛んで水に吐き出すことで唾液中の澱粉分解酵素を利用し、空気中の野生酵母で糖化作用を促す原始的な醸造法である。

 

 ひとつ気になるのは「古事記」では大気都比売神(おおげつひめ)、「日本書紀」では保食神(うけもちのかみ)が口腔から食物を排出するという場面が描かれていることである。これらの神は口腔から排出した品で相手を饗応した結果、相手の逆鱗にふれて殺害される。

 口腔から物を出して饗応するという点で口嚼酒(くちかみのさけ)についてはこの描写が当てはまるように思う。また豊受大神保食神(うけもちのかみ)の娘であり保食神と同一とみなされることも気になる点である。

 

 2つの異なる文化が接触した場合にしばしば饗応という行為がみられる。

 共食共飲や贈答を行うことが最も平和的な交渉である。悪意がなく饗応しようとした大気都比売神(おおげつひめ)や保食神(うけもちのかみ)が殺されることは何らかの理由でそうした饗応が失敗した事実が反映しているのではないだろうか

 

「旨い酒ですな!」

「ありがとうございます」

「ところでこの酒はどのように造るのですか?」

「女性が口のなかで噛んだ米を吐き出してつくるのですよ」

「‥け、けしからん!(激怒)」

 

そんな“事件”があったとしてもおかしくない。

 

 

   流浪する女神の謎

 

 

 伊勢神宮に祀られている天照大神は日本で最高の崇敬を受けている神である。

日本書紀』の崇神天皇(第10代天皇)の代、宮中に天照大神倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二神を祭っていたが、疫病の流行などの凶事があったことから天照大神を宮中の外で祀ることになった。天照大神は豊鍬入姫命(とよすきりひめのみこと)によって大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀られた。その後、天照大神は鎮座の場所を求めて90年あまり移動を繰り返す。

 

 鎮座の地を求めて天照大神が留まられた地を元伊勢と呼ぶ。元伊勢であることを伝える場所は60ヶ所にも及ぶ。

 大和国を離れて最初に遷座したのが丹波国である。

 くどいようだが丹波、丹後に分かれるのは和銅6年、女帝である元明天皇(第43代天皇)の時代であるから、大和国を離れて最初に遷座されたのは丹後の地であったことになる。

 

真名井神社『籠神社摂社』(宮津市江尻 )

皇大神社福知山市大江町内宮)

笶原神社舞鶴市紺屋)

竹野神社 (京丹後市丹後町宮)

 

 などが丹後にある元伊勢の比定地とされる。

 これらいずれかの元伊勢の地で丹後の女神である豊受大神天照大神のつながりがうまれたことが考えられる。

 

 垂仁天皇(第11代天皇)の第四皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を伊勢の地に祀ったとされ、倭姫命伊勢神宮に仕える斎宮の起源とされる。

 垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめ)の父は丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)であり、倭姫命青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を征伐した彦坐王(ひこいますのみこ)の孫にあたる。最初の斎宮が丹後にゆかりの人物であることは、丹後の女神である豊受大神が伊勢に祀られる機縁のひとつであるように思われる。垂仁天皇は丹後の4人の媛を妃にした点で丹後とのゆかりが大変に深い。

 

 

 最高の神格をもつはずの天照大御神がなぜ、遷座地を求めて流浪し、当時は僻地といってよい伊勢に鎮座することになるのかという点は興味深い。

 実は流浪の女神という点で天照大御神豊受大神には共通点が存在するのである。

 磯砂山に天下った女神(豊受大神)も安住の地を求めて放浪したからである。

 

 

古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」〈上〉

古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」〈上〉

  • 作者:門脇 禎二
  • 発売日: 2000/03/01
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 宮津市の西側になる大宮町の町名にもなっているのが「大宮売」(おおみやめ)という女神を祀った大宮神社(おおみやめじんじゃ)である。

 大宮売神社は弥生時代後期の遺跡の上に作られていることが確認されており大変に古い神社である。

  

 神社近くにある大谷古墳は女性を一人のみ埋葬している。全国的にても女性だけを埋葬した古墳は僅かに10例未満である。

 被葬者は4世紀後期の首長的な女性であり、その女性を祀ったのが大宮売神社である。大宮売(おおみやめ)は当地の女性首長の存在を反映した地主神的な存在であったと考えられる。

 大宮売神社は「三代実録」の貞観元年(859年)に従五位上という高位に任じられ、また丹後国で二座並ぶのはこの大宮売神社だけであることから別格の扱いを受けて居ることが分かる。丹後地域の祭祀のなかで最も権威があったはずである。

 

 

 大和の元々の神、地主神である倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)に対して天照大神は他所から天下った神である。それゆえに並び立たず天照大神は長い放浪を続けたと考えられる。

 丹後の女性首長の祭祀に起源を持ち、元々の地主神で神ある大宮売(おおみやめ)と天から天下った豊受女神は並び立たなかった。これは全く同じ構造である。

 

 

 豊受大神は豊受が穀物神であり良く酒を醸したとされるが、大宮売(おおみやめ)は宮中の造酒司(みきのつかさ)の六座のうち四座を占めている。大宮売(おおみやめ)は宮中の酒の神なのである。

 

 大宮売神社の旧称は「周枳社」(すきしゃ)であり、住所は大宮町周枳(すき)である。

 大嘗会が最重要の宮中儀式であり、そこで供される米を供することは極めて重要な意味をもつことは述べたとおりである。

 大宮町周枳はこの大嘗会で天皇が用いる米である悠紀(ゆき)と主基(すき)を供する国に定められたことがあり、その由緒から周枳の名を使うようになったであろうと言われる。和名抄にすでに周枳の郷名が載っている。また稲作と酒造が密接に結びつくことはいうまでもないだろう。

 

 

  各地の国津神を宮中で祀ることで権威を与え、奉仕させることで大和王権のなかに編入することが行われたと考えられる。最重要の儀式である大嘗祭新嘗祭)に用いる米を供出させることもまた同様の意味があるにちがいない。また大宮売(おおみやめ)は天皇を守護する役割の八神の一柱としても今でも宮中で大切に祀られている。

 

 大和王権は戦争や武力だけではなく婚姻、通商という平和的関係によって地方の力を取り込んできた。当時は圧倒的に宗教や呪術の力が重大な意味をもっていたので地方の神を祀ることは地方の国々を融和する大切な行為であったと思われる。

 

 欽明天皇(第29代天皇)の時代に仏教が公伝したとされる。

 大和王権が仏教を積極的に採用した理由のひとつは鎮護国家によって国を庇護することであり、また当時の中国、朝鮮と伍するために必要だったこともあるが、仏教という統一的宗教によって各国の地主的神への信仰を弱める働きがあったのではないかと思われる。