謎多き女神 豊受大神
伊勢神宮を初めて訪れた際に豊受大神(とようけおおかみ)を祀る外宮(げくう)の高札に気がついた。
そこには「雄略天皇の御代に丹波の国から天照大神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)としてお迎え申し上げました」と書かれてあり不思議に感じたことを覚えている。
(高札に書かれている「丹波」とは和銅6年に丹波、丹後、但馬に分かれる以前の国名としての「丹波」であるから、豊受大神は「丹後の女神」と呼んで差し支えないだろう。)
豊受大神が伊勢に遷座される経緯については『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』や『豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんぎ)』に書かれている。
天照大御神が雄略天皇(第21代天皇)の夢に現れて「一所にのみ坐せば甚苦(いとくるし)」、また「大御饌(おおみけ)も安く聞食きこしめささず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神(みけつがみ)、等由気大神(とゆけおおかみ)を、我許あがりもが」と教え諭されたとある。即ち、天照大神自身のお言葉により「食物の神」である御饌津神(みけつがみ)としての豊受大神が丹後の「比治の真名井」(ひじのまない)から呼び寄せられたとある。
皇祖神を祀る伊勢神宮が日本で最高の崇敬を受ける神社であることは言うまでもない。
伊勢神宮では皇祖神である天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る内宮(ないくう)と衣食住の守り神である豊受大御神の外宮を併せて祀る。
しかしなぜ、最高神である天照大神の元に丹後の女神である豊受大神が祀られているのだろうか?
また内宮より先に外宮を拝する「外宮先祭」が行われるなど外宮の豊受大神に対して特別な崇敬が払われている点も気にかかる。
豊受大神については不明な点が少なくない。
丹後の祖神といっていいほどの存在でありながら不明な点が多すぎるのである。豊受大神は偉大にして謎多き女神といえる。
舞鶴では最も社格の高い大川神社を筆頭に鹿原の阿良須神社(あらすじんじゃ)が豊受大神を祀っている。また田口神社、三宅神社、原神社など舞鶴各所に豊受大神を祀る神社が見られる。
丹後国に属した加佐郡、与謝郡、竹野郡、中郡、熊野郡に大変な数の豊受大神とその同系の神が祀られていた。
豊受大神は食物、穀物の女神であると考えられる。また保食神(うけもちのかみ)や稲荷神も同様に穀霊神、食物神の意味を持つと考えられることから、穀霊神、農耕神、食物神という共通点から稲荷、保食神などを豊受と同系の御饌津神(みけつがみ)と見ると丹後には大変な数の御饌津神の祭祀が行われていることになる。
今日、豊受大神が丹後の女神であり、丹後の祖神的存在であることを意識されることは殆どないといって良い。そのことは少し残念な気がする。
「丹波」(たんば)の語源となったのは「田庭」(たには)という言葉であったとされる。
京丹後市峰山町には豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の「月の輪田」、籾種をつけた「清水戸(せいすいど)」があることから、その地が田庭(たにわ)と呼ばれ、田庭が「丹波」(たんば)の語源となったという説がある。豊受大神の存在が丹波、丹後、但馬のルーツになった可能性があるのである。これほど重要な豊受大神であるが「古事記」には記述がなく「日本書紀」には僅かに一行の簡単な記述があるのみである。
伊勢神宮における御饌津神(みけつがみ)とはいかなる存在であろうか。
天照大御神の御饌都神(みけつかみ)として鎮座して以来約1500年、外宮の御饌殿で一日に2度、朝と夕方に神饌を奉納することが続けられている。これは「日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)、あるいは「常典御饌」(じょうてんみけ)とも呼ばれる。
私達も日常的に神仏に食物などを供えることがあるがそれらからの類推で豊受大神の役割を軽んじてはならないと思う。
新嘗祭(にいなめさい)とは天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である。また天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭(だいじょうさい)という。新嘗祭(大嘗祭)は宮中儀式のなかでも最も重要なものとされる。神前に食べ物を供えること、神前に供えられた食物を共食するということ自体に宗教的(呪術的)な意味があると思われる。天皇が各所の食物を食べることはそれらの食べ物を供した各所に権威を与えるものであると同時に天皇が各所を統べることを象徴していたのではないかと考えられる。また天孫降臨では天照大神が天孫に種籾を授けることから稲作と皇室の関わりは大変に深い。
豊受大神と羽衣伝説
豊受大神の出自は標高661メートルの高山である磯砂山(いさなごさん)に天下った天女だったされている
磯砂山の山頂には美しい天女のレリーフが置かれ『日本最古の羽衣伝説 発祥の地』と記されている。
最古の羽衣伝説とはいかなるものであろうか。「丹後風土記」に記された羽衣伝説の内容は概ね次のような内容である。
磯砂山の山頂に舞い降り羽衣を隠されて天に帰れなくなった天女が老夫婦の子として引き取られる。天女は万病に効く酒造りにたけていたため老夫婦は裕福となる。しかし老夫婦は天女を追い出し天女は流浪の末に奈具(なぐ)の郷にとどまる。天女は此の地で豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られた。
筑紫申真は「アマテラスの誕生」のなかでアマテラスが天つカミとして、日、月、雷、風などの自然現象を指すとして、そのカミが示現する(天(あま)降(も)り)ためのプロセスを次のように述べている
まず神は舟にのってかけおりて、めだった山の頂上に到着します。それから山頂を出発して、中腹を経て山麗におりてきます。そこで、人々が前もって用意しておいた樹木(御蔭(みあれ)木(ぎ)とよばれる)に、天つカミの霊魂がよりつきます(憑依)。人びとは、天つカミのよりついたその常緑樹を、川のそばまで引っぱっていきます(御蔭(みあれ)引き)。
川のほとりに御蔭木が到着すると、カミは木からはなれて川の流れの中にもぐり、姿をあらわします(幽現)。これがカミの誕生です。このようにして、カミは地上に再生するのです。このような状態を、カミの御蔭(みあれ)(御(み)生(あれ))とよんだのです。そしてカミが河中に出現するそのとき、カミをまつる巫女(みこ)、すなわち棚(たな)機(ばた)つ女(め)は、川の流れの中に身を潜(くぐ)らせ(古典はこのような女性をククリヒメとよんでいます)御(み)生(あ)れするカミを流れの中からすくいあげます。そして、このカミの一夜(ひとよ)妻(づま)となるのでした。これはむかし、日本の各地で、毎年一度ずつ定期的に、もっともふつうにおこなわれていたカミの出現の手続きでした。(「アマテラスの誕生」より)
神を迎える神聖な乙女が同時に織女でもあったことは重要である。
天照大神が天岩屋に隠れる原因となったのは須佐之男命(すさのおのみこと)が神聖な機織りの乙女(巫女)を死に至らしめたことによる。(この巫女は天照大神自身であるともいわれる)
羽衣伝説は神が天(あま)降(も)りするプロセスを反映していることが明らかである。
池で水浴をしたとは池に依りついた神を水浴を通じて巫女に移すことであり、羽衣とは巫女が織女であったことを意味していたにちがいない。
もうひとつ重要な点として磯砂山に降り立った神とは、かって彼方の海上から船で来航した異邦の人々の投影ではないかと考えられることである。 天(あま)と海(あま)が同音であることは興味深い。
彼方の海上より来航せし人々は必ず、海岸近くの高山を目標として到来した。高山は航海上の目印であっただけでなく、航海の安全を祈願する場所であったはずである。想像を逞しくすれば長い航海の末に来航した人々は自分達を導いてくれた高山に上ってなんらかの宗教的儀式、航海への庇護に対する感謝をささげ、さらに土地の神々、土地の人々との融和の儀式を行ったのではないだろうか。
豊受大神は酒の女神である
地上に留まった天女は万病に効くという酒を作り、養父を富み栄えさせた。
豊受大神の酒は単なる嗜好品というよりも不老長生の特別な薬効をもっていたと考えられる。
丹後には不老不死に関する伝承が数多く存在する。代表的なものは次の4つと考える。
1 浦島太郎と竜宮の物語
2 人魚の肉を食べて八百年生きたと言われる八百比丘尼
3 丹後には日本海側で唯一徐福伝が残されていること
4 常世の国にでかけて非時香葉(ときじくのかくのみ)を持ち帰った田道間守(たじまもり)
こうした不老不死にまつわる伝承の多さからも天女(豊受大神)の造った酒に特別な力があったことは重要である。
当時の酒は口嚼酒(くちかみのさけ)であったと考えられている。
口嚼酒は生米を噛んで水に吐き出すことで唾液中の澱粉分解酵素を利用し、空気中の野生酵母で糖化作用を促す原始的な醸造法である。
ひとつ気になるのは「古事記」では大気都比売神(おおげつひめ)、「日本書紀」では保食神(うけもちのかみ)が口腔から食物を排出するという場面が描かれていることである。これらの神は口腔から排出した品で相手を饗応した結果、相手の逆鱗にふれて殺害される。
口腔から物を出して饗応するという点で口嚼酒(くちかみのさけ)についてはこの描写が当てはまるように思う。また豊受大神は保食神(うけもちのかみ)の娘であり保食神と同一とみなされることも気になる点である。
2つの異なる文化が接触した場合にしばしば饗応という行為がみられる。
共食共飲や贈答を行うことが最も平和的な交渉である。悪意がなく饗応しようとした大気都比売神(おおげつひめ)や保食神(うけもちのかみ)が殺されることは何らかの理由でそうした饗応が失敗した事実が反映しているのではないだろうか
「旨い酒ですな!」
「ありがとうございます」
「ところでこの酒はどのように造るのですか?」
「女性が口のなかで噛んだ米を吐き出してつくるのですよ」
「‥け、けしからん!(激怒)」
そんな“事件”があったとしてもおかしくない。
流浪する女神の謎
伊勢神宮に祀られている天照大神は日本で最高の崇敬を受けている神である。
『日本書紀』の崇神天皇(第10代天皇)の代、宮中に天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二神を祭っていたが、疫病の流行などの凶事があったことから天照大神を宮中の外で祀ることになった。天照大神は豊鍬入姫命(とよすきりひめのみこと)によって大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀られた。その後、天照大神は鎮座の場所を求めて90年あまり移動を繰り返す。
鎮座の地を求めて天照大神が留まられた地を元伊勢と呼ぶ。元伊勢であることを伝える場所は60ヶ所にも及ぶ。
くどいようだが丹波、丹後に分かれるのは和銅6年、女帝である元明天皇(第43代天皇)の時代であるから、大和国を離れて最初に遷座されたのは丹後の地であったことになる。
竹野神社 (京丹後市丹後町宮)
などが丹後にある元伊勢の比定地とされる。
これらいずれかの元伊勢の地で丹後の女神である豊受大神と天照大神のつながりがうまれたことが考えられる。
垂仁天皇(第11代天皇)の第四皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を伊勢の地に祀ったとされ、倭姫命が伊勢神宮に仕える斎宮の起源とされる。
垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめ)の父は丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)であり、倭姫命は青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を征伐した彦坐王(ひこいますのみこ)の孫にあたる。最初の斎宮が丹後にゆかりの人物であることは、丹後の女神である豊受大神が伊勢に祀られる機縁のひとつであるように思われる。垂仁天皇は丹後の4人の媛を妃にした点で丹後とのゆかりが大変に深い。
最高の神格をもつはずの天照大御神がなぜ、遷座地を求めて流浪し、当時は僻地といってよい伊勢に鎮座することになるのかという点は興味深い。
実は流浪の女神という点で天照大御神と豊受大神には共通点が存在するのである。
磯砂山に天下った女神(豊受大神)も安住の地を求めて放浪したからである。
宮津市の西側になる大宮町の町名にもなっているのが「大宮売」(おおみやめ)という女神を祀った大宮神社(おおみやめじんじゃ)である。
大宮売神社は弥生時代後期の遺跡の上に作られていることが確認されており大変に古い神社である。
神社近くにある大谷古墳は女性を一人のみ埋葬している。全国的にても女性だけを埋葬した古墳は僅かに10例未満である。
被葬者は4世紀後期の首長的な女性であり、その女性を祀ったのが大宮売神社である。大宮売(おおみやめ)は当地の女性首長の存在を反映した地主神的な存在であったと考えられる。
大宮売神社は「三代実録」の貞観元年(859年)に従五位上という高位に任じられ、また丹後国で二座並ぶのはこの大宮売神社だけであることから別格の扱いを受けて居ることが分かる。丹後地域の祭祀のなかで最も権威があったはずである。
大和の元々の神、地主神である倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)に対して天照大神は他所から天下った神である。それゆえに並び立たず天照大神は長い放浪を続けたと考えられる。
丹後の女性首長の祭祀に起源を持ち、元々の地主神で神ある大宮売(おおみやめ)と天から天下った豊受女神は並び立たなかった。これは全く同じ構造である。
豊受大神は豊受が穀物神であり良く酒を醸したとされるが、大宮売(おおみやめ)は宮中の造酒司(みきのつかさ)の六座のうち四座を占めている。大宮売(おおみやめ)は宮中の酒の神なのである。
大宮売神社の旧称は「周枳社」(すきしゃ)であり、住所は大宮町周枳(すき)である。
大嘗会が最重要の宮中儀式であり、そこで供される米を供することは極めて重要な意味をもつことは述べたとおりである。
大宮町周枳はこの大嘗会で天皇が用いる米である悠紀(ゆき)と主基(すき)を供する国に定められたことがあり、その由緒から周枳の名を使うようになったであろうと言われる。和名抄にすでに周枳の郷名が載っている。また稲作と酒造が密接に結びつくことはいうまでもないだろう。
各地の国津神を宮中で祀ることで権威を与え、奉仕させることで大和王権のなかに編入することが行われたと考えられる。最重要の儀式である大嘗祭(新嘗祭)に用いる米を供出させることもまた同様の意味があるにちがいない。また大宮売(おおみやめ)は天皇を守護する役割の八神の一柱としても今でも宮中で大切に祀られている。
大和王権は戦争や武力だけではなく婚姻、通商という平和的関係によって地方の力を取り込んできた。当時は圧倒的に宗教や呪術の力が重大な意味をもっていたので地方の神を祀ることは地方の国々を融和する大切な行為であったと思われる。
大和王権が仏教を積極的に採用した理由のひとつは鎮護国家によって国を庇護することであり、また当時の中国、朝鮮と伍するために必要だったこともあるが、仏教という統一的宗教によって各国の地主的神への信仰を弱める働きがあったのではないかと思われる。
殺された大蛇の記憶
舞鶴の大蛇伝説
青葉山の大杉地区は名水の里として知られる。大杉神社境内に湧く清水は「大杉の清水」として『平成の名水百選』に選ばれた。日量2000トンという豊富な湧水量を誇り、優れた水質は銘酒「大杉」の源水となっている。
大杉神社には大蛇の伝説がある。
大杉神社に大蛇が現れてこの名水を飲むと不思議なる力を発揮し三本の杉を巻きしめて一本の大きな杉に成したとの伝説が伝わる。
さらには青葉山の麓である福井県にも退治された大蛇の伝説と蛇塚の言い伝えが残っている。
毎年8月14日に城屋にある雨引神社にて行われる「城屋の揚げ松明」は高さ16mの大松明に、地元の青年たちが火のついた小松明を投げ上げて点火する伝統民俗行事であり、京都府無形民俗文化財にも登録されている。この「城屋の揚げ松明」もまた大蛇退治の伝説と共に伝わったとされ、雨引神社は『蛇神様』として祀られている。
藁製の大蛇を引き回す“エントンビキ”のような行事が現在でも市内に多数残されていることも舞鶴の大蛇伝承を考える手がかりになるだろう。
祀ることは崇敬と鎮魂の意味合いがある。また鎮魂された存在がその威力を恵みとして与えてくれることもある。近世の鬼退治伝承では勧善懲悪のなかで語られることが多いが、古くは敗者にたいして特別な畏敬が与えられた。
舞鶴で最も有名な大蛇伝説は与保呂(よほろ)に伝わるものである。
おまつという娘の悲恋から大蛇が退治されるものである。退治された大蛇の体は岩に当たって断ち切られ、大蛇を断ち切ったという蛇切岩が現在も残っている。その蛇の頭は日尾神社に、胴を行永の堂田宮に、尾は大森神社に祀った。
蛇神と杉と松
奈良県桜井市の三輪神社は日本の古社のなかでも最も古い神を祀る古社である。
神社とは神が常住するというのは後世の考え方であり、恐らくは仏教の影響によるところが大きい。三輪神社の御神体は三輪山であり、三輪の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は蛇であるとされている。
大神神社のご神木は杉である。三輪の神は美酒を醸すという伝承があり、酒の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の霊威が宿る杉の枝を酒屋の看板とする風習が生まれ、軒先に酒ばやし(杉玉)を吊るすようになった。
三輪の枕詞は味酒(うまさけ)で、「味酒(うまさけ)の三輪」は万葉集にも詠まれた。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は酒の神とされた。杉が霊木とされたことは舞鶴の大杉の故事を思い出させる。杉と大蛇という結びつきは深いものであるらしい。
日本で最も有名な大蛇といえば素戔嗚尊(すさのうのみこと)によって退治されたヤマタノオロチである。
退治されたヤマタノオロチの頭部は埋められ、その上に杉を植えたとされ「八本杉」とよばれる霊木が残されている。八本杉は島根県南雲市にある斐伊神社(ひいじんじゃ)の境内地にある。
このことも明らかに杉と大蛇との関係性がみてとれるのではないだろうか。
杉の樹皮が蛇の体表を連想させるのかもしれない。
また高木に成長した杉に落雷することも多かったと考えられ、雷神としての蛇との関係も考えられよう。
蛇が水神として酒の醸造につながることが考えられる。三輪神社、京都最古の古社である松尾大社の神が共に酒を司ることはヤマタノオロチの退治に酒を飲ませることともつながるのかもしれない。
酒樽など醸造に関わる道具の多くが杉材で作られていた。
「麹蓋(こうじぶた)」と呼ばれる麹を育てる木箱も杉材であった。
現在の醸造はホーロー製の金属タンクで行われるが、古来の杉材の樽を使用すると杉の香気が加わるとされ、そのことも杉(蛇)と醸造の関係に意味を加えていたに違いない。
賀茂神社は『山背国風土記』に記録が残る京都最古の古社であるが、賀茂神社の御神体は神山(こうやま)である。
社殿の前には神山(こうやま)を模した円錐形の立砂が作られている。そして立砂の先端に松葉が挿してある。
神の山と神の依る松とを極めてシンプルに表現しているように思う。
神はまず山の上の松を依り代として降り立つとされていたのである。松の語源も神を「待つ」とも「祀る」とも言われる。杉、松、榊、竹、檳榔(びろう)などの常緑植物は神の依代として特別視された。
杉、松、榊、竹は門松のように宗教的に用いられることが多いが、古代においてそれらよりも特別視されたのは檳榔(びろう)であった。
ヤシ科の常緑樹である檳榔(びろう)は公卿の牛車の屋根材や大嘗祭においては天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられているなど大変に神聖な植物と考えられた。
神なる蛇
神話を絵画にした場合、神々は麗しい男女として描かれることが多いがそのことは果たして正しいのだろうか?
日本の国産みを為したイザナギとイザナミという男女の神々に大きな影響を与えたと考えられるのは古代中国の女媧(じょか)と伏義(ふぎ)という男女の神である。
女媧(じょか)と伏義(ふぎ)が上半身は人間で下半身は長大な蛇の姿をし、絡み合っている図像が残されている。これと同様の図像がインドの龍神ナーガと竜女神ナーギーの姿として残されている。
絡み合う姿というのは蛇の交接する姿であり、そのことはイザナギとイザナミがが国土創生のために交接したことと関わるように思われる。古事記においてイザナギとイザナミが柱を左右からめぐるという姿は実は蛇が中心線を螺旋状に絡み合う姿に一致するように思う。
結界として張られる注連縄(しめなわ)も二体の蛇がよりあわさった姿であるとされることもある。
「古事記」を日本人のルーツとして日本人の最も古い姿を読み取ろうとする試みもあるが、実は「古事記」には外来の思想や文物が随所に織り込まれている。
比較神話学の視点からは日本の古代神話には南方の神話や伝承と類似していることが指摘されている。
例えば日本国の始原である国産みそのものも同様の物語がポリネシアを中心にメラネシア、ミクロネシアに分布が見られるという。(筆者はインド神話の乳海撹拌を想起してしまうのだが)
日本で最古級の神である三輪神社については次のような逸話が有名である。
倭迹迹日百襲媛命(やまとももそひめのみこと)は三輪山の神である大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだという。
倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼であったする説もある重要な人物であるが、この逸話からも神の本体が蛇とされたことは明らかである。
「たまたま三輪山の神が蛇であった」のではなく、多くの場合に神の正体が蛇であることを読み取るべきなのだと感じる。現代の私達が想像する神のイメージは恐らく人間に近い容姿ではないだろうか。白衣に白髪の老人などはその典型であろう。しかし古代においては蛇が神として祀られ畏怖された例が大変に多い。
蛇に対する信仰は世界中に見られる。普遍的と言って良いだろう。
蛇に対する信仰はエジプトに始原を持ち世界中に伝播したとも言われるが、蛇という特徴的な生き物に接した人々の間で同時発生的に生じたものなのかもしれない。
旧約聖書のなかで最初の人類であるアダムとイブが生まれたが、イブをそそのかすのは蛇である。そこには蛇が人間より智慧ある存在として描かれているように思う。
蛇はなぜ人類に畏怖されたのであろうか?
人類の祖先が樹上で暮らしていた頃に恐ろしいものは<落下すること><暗闇>、そして<蛇>であったという。なめらかな体で樹上に這い上がってきて襲いかかる蛇は恐怖であったに違いない。
或いは恐竜の時代に既に出現したという私達の遥か遠い先祖を圧倒するように君臨していた巨大な爬虫類の記憶であるのか‥私達が蛇に抱く畏怖や嫌悪感のなかには世代を超えて祖先から受け継がれた古い記憶があるのかもしれない。
蛇の属性としては
智慧あるもの
生命力(生殖力)
脱皮(再生)すること
冬眠を経て再び姿を現すこと
蛇の持つ毒の脅威
蛇は穀類を食べるネズミを脅かすこと
などが指摘されるが、古い伝承や神話には次のような特別な神格が与えられている。
水神 雷神 金属神 樹木神
特に雷は「神鳴り」であり、霊力ある存在として格別に畏怖された。
落雷による激甚なる破壊や火災は恐怖の的であったと思われる。
また十分な灌漑設備を持たない時代には雨による降水が作物の生育を決定的に左右していた。
水をもたらすのは雨雲と雷鳴である。雷は破壊だけでなく恵みをもたらす存在でもあったといえる。
雷を神聖視して落雷した区域に注連縄をはる風習が残されている。雷が豊作をもたらすという伝承も広く信じられているが、近年の研究で放電により空気中の窒素が水に溶け込むことで植物の成長を早めるということが指摘されている。自然を観察することに長けた古代の人々はそのことに気がついていたに違いない。
雷としての蛇神の性格は複雑に結びついている。
雷→雨(水)
雷→高木(樹木)に落雷すること
雷→金属に落雷すること
特に
神=蛇=雷
という関係性によって読み解くことのできる問題は大変に多いように思う。
漢字の『神』を構成する<申>は雷を表すという説もあり、中国においても神は雷と結びついていた。
奄美大島では雷のことを「ティングロジャ」(天の大蛇)あるいは「グロジャ」(大蛇)と呼ぶことが報告されている。
「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)では晡時臥山(くれふしやま)の伝説が著名である。
茨城の郷の女性のもとに見知らぬ若者が夜になると訪れ、娘は懐妊したが産み落としたのは小さな蛇であった。小蛇がだんだんと大きくなって養いきれなくなり、母のもとを去るときに別れ際に母の兄を雷撃で撃ち殺したという。
この逸話も神が蛇であり、雷神であったことと密接に関係しているように思う。
民俗学的観点から蛇について考察を加えた吉野裕子によれば、蛇の古語は「カカ」「ハハ」であり、神(かみ) という言葉の語源も「カ(蛇)」と「ミ(身)」に由来するという。(蛇の呼称としてヤマカガシなどのその例であろう)
吉野裕子の研究は強引に蛇に結びつける傾向があり注意を要するが、神の語源そのものが蛇であるというのは記憶にとどめておく必要があると思う。
恐ろしき生き物の痕跡
大蛇(龍)などの爬虫類型のモンスターは世界中の伝承や神話に見られる。
それらの一部は実在した恐竜などの化石から発想されたものもあるのではないだろうか。
1770年にオランダ南東部にあるマーストリヒトの採石場で巨大な爬虫類の顎の骨が発見された。この骨は『マーストリヒトの大怪獣』として展示された。“大海獣”とされた骨はモサササウルスの顎の骨であった。モサササウルスは海に住む巨大な爬虫類で映画「ジュラシック・パーク」でもお馴染みである。四肢がヒレになった巨大な海獣である。「モサササウルス」とは<マーストリヒトのトカゲ>を意味する造語である。
陸上の覇者であった恐竜の化石は1882年にイギリスで発見されたイグアノドンでるからモサササウルスの骨格の発見はそれに30年余り先立つことになる。
1908年にはアメリカでカモノハシ恐竜の一種である1908年にアメリカでミイラ状の化石で発見された。かっては恐竜など古代生物の骨格が地表に露出していることすらあったとされる。こうした巨獣の骨格はアジアの龍や大蛇、西洋のドラゴンといった爬虫類型のモンスターを生み出すヒントになったのではないだろうか。
鬼は言うに及ばず、俵藤太に退治される巨大なムカデ、そして大蛇など伝承のなかの生き物が実際に存在したとは考えにくい。ではなぜそのような巨大な怪物が想像されたかについては興味深い考察が可能である。
古代人にとって地下から採掘される鉱物資源は極めて貴重なものであり、精錬された金属は富や権力の源泉になるほどの存在であった。そうした採掘のなかで発掘された化石などは古代の人々の想像を大いにかき立てたにちがいない。
想像を逞しくするなら、細く長く地下に続く坑道は蛇やムカデが好んで地下の狭い空間を棲み家とすることを想像させたのではないだろうか。
蛇が自分の体の上に体をかさねてトグロを巻く姿を古代の人々は特別視したとされる。
形の整った山、多くは三角錐や円錐の山が御神体とされた。そうした整った山の姿に蛇の姿を感得したのである。
全国に「モイワ」「モヤ」という名称の山が存在する。アイヌ語で神のいる山という意味であるとされる。
青森の雲谷峠(もやとうげ)、靄山(もややま)秋田県の茂谷山(もやさん)など形の整った特別な山を神聖視したことともつながるように思う。
笠山、傘山、笠置山などの名称の山が沢山ある。
もともと笠は呪術的、霊的な力をもつものと考えられていた。
地蔵に笠を供えることで幸せになる「笠地蔵」という民話が知られているが、聖物である笠を地蔵に供えることが本来行われていたことが反映しているのではないかと考えられる。
民俗学者の吉野裕子は蛇の古語に「カ(カカ)」があるとして笠(カサ)は蛇がとぐろを巻いた状態を表すとしている。
加佐郡においては青葉山、冠島もまた三角錐の形を為しており、特別な信仰の対象であったと考えれる。
青葉山や冠島への崇敬は古代から続くものであるが、その深層にはこうした蛇信仰が存在した可能性が極めて高いのではないだろうか。最初に青葉山には大蛇の伝承が残されていることを述べたが、青葉山もその見事な三角錐のなかにとぐろをまく蛇の姿を見たのか、山容が形作る見事な三角錐を蛇の頭部そのものとみなしたのか‥いずれにせよ古代の人は青葉山に蛇を感得したことは間違いない。
冠島は20万羽ともいわれるオオミズナギドリの繁殖地であり、この海鳥の卵が多いことから大型のアオダイショウが生息するとされ、蛇は冠島に住む竜神の使いと信じられている。
ここで大きな疑問がわく。
蛇が神そのものであるならばなぜ蛇(大蛇)が殺されるという伝承が多いのか?という疑問である。
大蛇はなぜ殺される
蛇(龍)を退治する神話や伝承が世界中に見られるが、日本にも大蛇を殺すという伝承が全国に存在する。
はっきりとした蛇への畏怖や信仰があり、蛇が神と崇められたことは確実であるにも関わらず、一方で蛇が殺される伝承が多いことは大きな疑問である。
ひとつの仮説として考えられることは蛇を信仰した集団がなんらかの理由で排斥、抑圧されるという歴史的な事実が反映されているのではないかいうことである。
特定の集団や血縁に結び付けられた動物をトーテムと呼ぶが蛇をトーテムとしていた集団があったことは縄文土器には蛇を多用したものが多く見られることからも明らかである。つまり蛇をトーテムとする集団が駆逐、排除されたこととかかわるのかもしれないと考えている。
谷川健一は縄文中期に蛇に対する信仰が築かれたとするが、その信仰がどのような盛衰をたどったのかその詳細については残念ながら不明というほかない。
大蛇と殺される女神
もうひとつの観点から大蛇が殺されることについて考えてみたい。
大蛇が殺されることを『退治』と呼んでしまって良いかとという疑問である。
敗死したり恨みをもって亡くなった霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として 平穏や繁栄を与えるとされた。霊威を和らげ、むしろその異力を取り入れようという発想である。
仏教の天部の神々の多くは仏教に教化されることで仏法を守護したり、仏教徒に福寿をもたらすという考えによるものであり、この御霊信仰との類似は明らかではないだろうか。
蛇が神であるという意識が失われると同時に、蛇神への畏敬が失われ蛇はただ恐ろしいだけの存在になっていかざるえを得なかったのかもしれない。
『退治』というのは多分に現代的な考えであると思う。
ここでもうひとつの可能性を考えてみたい。それは『殺される神』という視点である。
神が殺されるということが単なる殺戮ではなく神が殺され、その身体が分断されることでそこから様々な新しい生命が誕生するという考えが存在したという事実である。
「古事記」では大気都比売神(おおげつひめ)にまつわるつぎのような物語がある。
高天原を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)は、空腹を覚えて大気都比売神(おおげつひめ)に食物を求める。大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は大気都比売神が汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。
「日本書紀」には保食神(うけもちのかみ)について同様の逸話が知られる。
月読尊(つきよみのみこと)が保食神(うけもちのかみ)を訪れた際に、保食神は口から様々な食品を吐出して饗応しようとした。
その態度に怒った月読尊は剣で保食神を斬り殺す。ところが惨殺された保食神の体の各所から様々な家畜や穀物、蚕などが生育し、それが農業や養蚕業の起源となる。
保食神は豊受大神(とようけおおかみ)の母にあたることも重要である。豊受大神は丹後に巨大な信仰圏を持ち、伊勢神宮に天照大神と主に祀られている。
体から食物を排泄する神、殺された神が農業の起源となることは非常に奇異な印象を受けるが、こうした神話はハイヌウェレ型神話として知られている。
ハイヌウェレはインドネシアのセラム島に伝わる少女の名前である。
ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。
この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布していて特にタロ芋など芋類を栽培して主食としていた民族である。
切り刻まれた死体から生命が生まれるということは現代人にとっては大変に異常なことのように思える。
ジャガイモを栽培する際に種芋を切り分けて土に埋めると発芽して生育する。
栄養繁殖と呼ばれる植物の増やし方であるが自然現象への観察からこうした生命感が生まれてきた可能性があるのではないかと感じられる。
縄文時代の土器のは多くが乳房、妊娠など女性的特徴を持ち女性的、母親的な地母的性格をもたされていた。
それらを丁寧に作り上げた土偶をいくつもの破砕し、一部を家の中で丁寧に祀る一方で、他の大部分をいろいろな場所に分けて埋めることが行われることが知られている。このことは一見大変に不思議な行為であるが壊された土偶はまさに壊されて各所に埋められることで豊穣をもたらすと考えられたという説が提唱されている。
縄文時代にハイヌウェレ型神話に基づいた感性をもった人々が存在していたというのである。
ニューギニアのマリンド・アニム族の行うマヨという儀式がある。この儀式は吉田敦彦の「日本神話の源流」のなかに記載されているものである。
植物の繊維で作った模型の蛇が地面に埋めておかれ、人々がその蛇を掘り起こして切り刻み、その中に詰められていたサトウキビを食べるという儀式である。
模型の蛇は地母神的存在であり、分断された体から産み出されたものを祭りの参加者が享受するという。
このマヨという儀式が蛇の模型を使っていることは大変に興味深いように感じる。
蛇を退治するという物語が日本中に語られている。
これは蛇を分断することで豊穣を祈願することが行われていたのではないかという推理が成り立つのではないだろうか。
広く行われた祭儀として蛇や龍の模型を分断すること、実際にその形象のなかに食物が詰められていたかもしれない。
それによって豊穣がもたらされるという願いが込められていたのではないか。
そして分断による再生(豊穣)という本来の意味が失われて、悪しき存在を退治という物語に収斂してしまったのではないだろうか。
与保呂の大蛇にまつわる伝承は様々なバリエーションがあるが、私の印象ではこの伝承には後世に様々な物語の要素が付加されて成立したものであって、本来の話の核となるのは大蛇が切断されて殺されたという部分ではないかと思う。
ヤマタノオロチが退治され尾の中から剣が取り出される。その剣が三種の神器のひとつとなる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。
蛇の体内から宝器が見いだされることももしかしたらこのことと関係しているのかもしれない。分断された与保呂の大蛇の尾が祀られている大森神社の祭神は天御影命(あめのみかげのみこと)であり、天御影命(あめのみかげのみこと)は鍛冶神であり1つ目であるとされる。
退治されし者
退治される大蛇、退治される鬼という2つを並べて考えるとそこに何か共通するものを感じる。
もしかしたらある同じ現象を片方は大蛇退治と表し片方は鬼退治と表したことがあったのではないだろうか?
日本の文献に「鬼」が初めての記録されたのは「出雲国風土記」であり、それは大原郡阿用郷(現在の島根県大原郡大東町)であったという。そしてその鬼は眼がひとつであったという。その地は現在も阿用川という古代の香りを残す地名である。がその阿用川はヤマタノオロチ退治の舞台となった斐伊川(ひいかわ)と僅かしか離れていない。
そのように考えると青葉山の土蜘蛛討伐と青葉山に居た大蛇退治はどこかで共鳴しあっていてもおかしくない‥という連想が思い浮かぶ。
古代にいて蛇は神として特に雷神として畏怖されたと述べたが、今日、私達が雷様(雷神)として思い描くのは鬼の姿ではないだろうか?そのことも蛇と鬼の共通性という問題を考える手がかりになるのではないだろうか。
酒吞童子の物語を大江山ではなく伊吹山とする説があるが、大和武尊(やまとたけるのみこと)は伊吹山で大蛇によって殺される。ヤマタノオロチを退治した大和武尊がなぜ大蛇に殺されるのかというのは興味ある問題だが、伊吹山の神である蛇神がそれだけの霊威ある存在であったことを示唆しているようにも思う。
伊吹山に鬼(酒吞童子)が住んでいたとされことと伊吹山に恐ろしい蛇神が居たということはどこかでつながってくるのかもしれない。
山そのものが蛇とみたてられたこと、鬼にまつわる伝承の多くが山を舞台としていることなども何か非常に深い関係を示唆しているように思う。
鬼の装束は虎の皮の褌と描かれることが多いが、鬼の装束が蓑や笠とされたことについては既に述べた。
笠も蓑も着脱できることが蛇の脱皮になぞらえることが行われたらしい。
笠も蓑も単なる雨具ではなく神聖なる意味をもたされる場合があったのである。
神(蛇)とは脱皮するものであり、それが神の神聖性、不死性とつながっていたのであろう。
そして蓑笠の最も神聖なる素材は檳榔(びろう)であった。檳榔(びろう)は蛇に似た形をした神聖なる樹木であり、その葉は特に珍重された。
鬼と蛇をつなぐものとして「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)の夜刀神(やとがみ)の逸話が思い浮かぶ。「常陸国風土記」は古代の東国について記した最古の文献とされる。
継体天皇(第26代天皇)の時代に麻多智(またち)という人物が新たに田を開墾して献上したが夜刀(やと)の神が群れを引き連れて妨害し田を作らせなかった。土地の言葉で蛇を夜刀(やと)といいその形は蛇の体で頭に角があったという。麻多智(またち)は武装しこれらの夜刀(やと)を打ち殺し追い払った。
そして山の登り口に境界の目印をたてて境界から上は神の土地とし、下は人の土地として田を作ることとし、自らが神主として夜刀を敬い祀るので恨まないでほしいと伝える。
この逸話は山の神であり蛇の神であった夜刀と人間と争いの物語であり夜刀の神は蛇神にして額に角があったことも鬼と蛇の繋がりを感じさせる。
なお、「常陸国風土記」のなかではふれられていないが 夜刀は「谷人」(やと)であり山間の水源で製鉄に従事していた人々であり一方、田の開墾とは稲作の田んぼではなく製鉄のために砂鉄を沈殿させて選別する水簸(すいひ)の圃場を作るためであったともいわれる。
水簸(すいひ)とは比重により水中での沈降速度が異なることを利用して、底に沈んだ重い粒子を取り出す選鉱方法である。つまり夜刀の物語は製鉄に従事する人々の抗争であるという解釈がなりたつ。
(農業は鉱業と無関係のように思われるが、実際は砂鉄の採集には大量の水を管理する技術が伴うことから稲作の発展と鉱業との間には非常に深い関係があったように思われる。)
土着の集団が新たにやってきた集団によって駆逐されていく様子は退治される鬼の姿にも重なるものがある。
そして勝者にも少なからず敗者に対する畏敬が記されていることが救いのようにも思える。
舞鶴の鬼退治伝説 鬼とは何か?
舞鶴と3つの鬼退治伝承
福知山大江町にある『鬼の交流博物館』を訪れたときに「3つの大江山」という展示に眼が止まった。
大江山の鬼退治には3つの鬼退治伝承と結びついているという。
○ 青葉山の土蜘蛛「陸耳御笠」(くがみみのみかさ)が悪行を働いたために日子座王(ひこいますのみこ)が討伐した
○ 聖徳太子の異母弟である麻呂子親王(まろこしんのう)が薬師如来の力を得て鬼族退治行った逸話
舞鶴の旧名を加佐郡と称したが、加佐郡は現在の舞鶴市に加えて、大江町(福知山)や宮津市の一部を含む地域である。従って舞鶴市の前身である丹後国加佐郡の地域にはこれら3つの鬼退治の伝承が伝えられていたことになる。
丹波、丹後という地名は混同されやすい。
もともと古代には『丹波』(たには)という地域があった。
『丹波』は京都府の北部と中部、兵庫県や大阪府の一部にまたがる広大な領域であった。
その広大な『丹波』が7世紀から8世紀にかけて但馬国、丹波国、丹後国の3つの地域へと分かれた。
私の住んでいる金剛院の境内は福井県との県境に接しているが、福井県南部との文化的 な交流が盛んであり丹後の国の影響力は福井県の嶺南、広くは若狭湾一帯に及んでいたのではないかと考えている。
「古事記」「日本書紀」には崇神天皇(第10代天皇)の時代、各地に四道将軍を派遣し大和の王権が伸長してゆく様子が描かれる。
「古事記」では
高志の道 東の方十二道 丹波の國
の各地に3人の将軍を遣わしたと記され
「日本書紀」には
北陸 東海 西道 丹波
に4人の将軍を派遣したとされる。「古事記」「日本書紀」のいずれにも丹波の国が共通して取り上げられていることはこの地域が古くから強大な権力を持ち、大和王権にとって無視し得ない存在であったことを示しているのだろう。
大和王権もまた当初は各地に分立した権力のひとつでしかなかった。
大和王権は競合する勢力と常に戦争を行っていたわけではなく、婚姻関係を結んで融和的に勢力を拡大することが頻繁に行われたと考えられる。
青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)
最古の歴史書である「古事記」には崇神天皇(第10代天皇)の代に陸耳御笠(くがみみのみかさ)という凶賊を討日子座王(ひこいますのみこ)が討伐するという記述がある。
次代、垂仁天皇(第11代天皇)の治世には丹後から4人の媛(ひめ)が迎えられた
その系譜から景行天皇(第12代天皇)成務天皇(第13第天皇)らが続くことから、この時期、丹波と大和王権の結びつきは大変に深かったと考えられる。
前代の崇神天皇の時代には丹後の陸耳御笠(くがみみのみかさ)との軍事的な抗争があったとされるが、垂仁天皇の時代には一転して多くの媛(ひめ)が迎えられたことは興味深い。そして奈良にあった大和王権が奈良以外の地方勢力と婚姻関係を結んだ最初が丹後の媛であったことはいに注目されるべきだろう。
崇神天皇は最も実在が確実な最初の天皇であるという意見が根強い。その仮説に従えば天皇家の系譜のごく初期において大和王権と丹後との関わりが大変深かったことになる。
「陸耳御笠」討伐は最も古い記録に属するだけでなく、征討された人物について「陸耳御笠」(くがみみのみかさ)という固有の名称がはっきりと記されている点でも特異である。
「古事記」「日本書紀」「風土記」などに熊襲、蝦夷、土蜘蛛など異族としての名称はあっても征討された人物の名前が伝わっていることは少ないからである、
征討された異族の多くに侮蔑的な呼称が与えられているのに対して、「御笠」というのは敬称である可能性がある点でも特異であると感じる。最も早い例のひとつであり、敬称を伴った具体的な名前が伝わっていることは特異なことのように思える。
舞鶴の旧称は加佐郡であるが、恐らくは「加佐」(かさ)という地名と「御笠」(みかさ)は繋がりがあるに違いない。
「陸耳」(くがみみ)という呼称については『耳』に首長の意味があることが指摘されている。
「古事記」「日本書紀」などに異民族や凶賊を討伐した逸話が少なくないが彼らが果たして本当に悪者だったのだろうかという疑問を残しておいて良いのではないだろうか。
仁徳天皇(第16代天皇)の時代に飛騨に両面宿儺(がりょうめんすくな)という異人があって武振熊命(たけふるくまのみこと)に討ち取られたという記述が「日本書紀」にみられる。
両面宿儺は体の前後に2つの顔を持ち、4本の腕があったという。怪異な姿をして人民を苦しめた凶賊として討伐される。
一方で飛騨には両面宿儺を開祖として祀る寺院が多数あり「開山様」「両面様」と慕われている。多くの寺院を開き、悪竜を退治した英雄としての伝承も伝えられる。
「宿儺」(すくな)とは「宿禰」(すくね)のような敬称ではないかともいわれ、御笠という呼称にも通じるものがある。
麻呂子親王と鬼族
聖徳太子の異母弟とされる麻呂子親王の伝承は丹波、丹後の各地に残されており、70余りの事績が数えられるという。私の父の生まれた大浦半島の多禰寺(西国四十九薬師霊場)も麻呂子親王の開基と伝わる。
なかでも麻呂子親王が英胡、軽足、土熊らの鬼族を薬師如来などの法力を助けとして討伐した七仏薬師の伝承が丹波、丹後に数多く残されている。
七仏薬師(しちぶつやくし)とは、『薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)』や『薬師如来本願経』で説かれている、薬師如来を主体とした七尊の仏のことである。
西にある阿弥陀如来の極楽浄土に対して、東には七仏薬師の仏国(浄土)が7つ並んであり、一番遠い7番目に薬師如来の浄瑠璃浄土がある。
多禰寺は七仏薬師の本願地ともされるが、多禰寺以外の寺はいずれも丹後半島よりに位置している。浄瑠璃世界が最も東方にあることと関係があるのかもしれない。
奈良県葛城市にある當麻寺は麻呂子親王創建とされる古刹である。当麻寺を氏寺とする当麻氏は麻呂子親王を始祖としている。当麻寺と丹後の接点として天橋立で行われていた迎講の存在があげられる。迎講とは来迎する諸菩薩に仮装して練り歩く仏事である。
松尾寺の仏舞(ほとけまい)は、松尾寺に伝わる宗教的儀式である。国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年5月8日に松尾寺の本堂にて奉納される
仏舞は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面を着け、越天楽の譜に合わせて優雅に舞うもので、奈良時代に唐から伝えられたものと言われる。仏舞の由来や始まりは松尾寺の古い記録が焼失してしまったため不明だが、約600年前の江戸時代初期には既に舞われていた記録は残っている。 仏前神前で舞踊が奉納されることが多いが、仏自身が来迎し、舞うというのは珍しい。
丹波、丹後に麻呂子親王の伝承が数多く伝えられていることと、松尾寺に希少な仏舞が伝承されていることには何か繋がりがあるのかもしれない。
3つの鬼退治の伝承のなかで最も有名なものが大江山の鬼退治であることはいうまでもない。
酒天童子という異形の鬼が数多の手下の鬼を従えて大江山の山中に棲み、都に出没しては婦女をさらうなどの悪行を重ねる。源頼光とその四天王らが討伐に向かい、酒吞童子を知略と武勇で討ち果たす。この物語は江戸時代には広く知られた物語であった。
ひとつは山城と丹波の堺にある大江山(太枝山・老ノ坂)でありもうひとつが丹波の大江山である。車で京都に向かうと必ず通過する老ノ坂トンネル近辺が大江山であったかもしれない。
丹波には大江山という単独の山が存在するのではない。大江山とはいくつもの峰から成る連山である。
鍋塚(なべづか、763.0メートル)、鳩ヶ峰(はとがみね、746メートル)、千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ832.5メート)、赤石ヶ岳(あかいしがたけ、736.2メートル)などの峰々から成る。
大江山に登ると、独特の荒涼たる空気を感じる。
それはあなたの気のせい‥と笑われそうだが、そもそも鬼や妖怪といった怪異なるものを生み出すひとつのきっかけはその空間のもっている特有の力や気配のようなものではないだろうか。大江山には何か不思議な気配を感じるのである。現代人よりはるかに鋭敏な感性をもっていた古代の人達がそこに何かを感じても不思議は無いように感じる。
そして、
この3つに並々ならない不思議な力が漂っているように感じる。
それだけに各時代の様々な信仰、精神文化が複雑に堆積している。
鬼とは何か?
子供の頃見た水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」が強く印象に残っている。
「ゲゲゲの鬼太郎」は何度もリメイクされたが、人間以外の存在への恐ろしさと憧れのようなものを子供の私に教えてくれたように思う。勉強も運動も苦手だった私にとっては試験や競争の無いお化けの世界というものがどこか羨ましく思えたのかもしれない。
昭和から平成、令和と年代を重ねたが相変わらず妖怪は人気者である。
本稿を書き始めた頃は丁度「妖怪ウオッチ」が人気だった。流石に、当分は妖怪ブームもないかと思っていたがいつの間にか「鬼滅の刃」が一大ブームとなり大人も子供も夢中である。妖怪の人気は不滅であるらしい。
怪異なるものの代表である鬼の存在はどれほど科学文明が発達しても無くなることはないように思われる。
鬼といっても人を喰らう恐ろしい鬼から人間に騙されるる愛すべき存在とそイメージは実に様々である。
鬼とは何かというのは容易に答えが出せないが、そのいろいろな姿を取り上げてみたい。
盗賊なる鬼
大江山が2つ存在することは先に述べたとおりである。
京都市の西京区と亀岡を結ぶ付近は交通・軍事の要衝であり、かっては山城国と丹波国の境界であった。
車で京都に向かうと老の坂インターチェンジを通るが「老ノ坂」という地名も本来「大江山」に由来するという。
大江山(老ノ坂)には大江関が置かれてあって、京都から放逐された盗賊などの犯罪人は大江関より放逐されたものであったらしい。
旅とは困難なものであり、不安なものであった。
旅人が盗賊などの犯罪によって人命や金品を失うことは少なくなかった。
大江山(老ノ坂)を越える人々は自分がいよいよ危険な未知の旅路に向かうことを強く意識したはずである。
黒澤明が世界的名声を獲得した『羅生門』の原作は芥川龍之介の「藪の中」であるが、この「藪の中」の原話となったのは「今昔物語」の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)」。
これは丹波国を旅していた夫婦が強盗に遭う話である。当時、旅中で強盗に出会うことは決して珍しくなかったのであろう。
女をさらい金品を強奪するという鬼の所業は強盗、追い剥ぎと重なる。
鬼につきまとうのは盗賊のイメージである。
当時の人々にとって旅の持つ不安がこうした鬼退治のなかに反映していてもおかしくない。都に住む人々にとって周辺というのは不安であり、未知の領域だったのである。
自分の欲望のために他人を犠牲にするという人間の悲しくも恐ろしい性(さが)であった。
富山県八尾市には滅鬼という地名がある。武士が当地の山賊を退治したことにちなむとされ、鬼が山賊の類であったことに関係するのかもしれない。
百人一首に収められて小式部内侍の和歌は大江山を詠んだ最も有名な歌である。
ここに読まれた大江山は老ノ坂としての「大江山」であると考えれられる。
という行程を踏まえたのがこの歌だったのであろう。
藤原範兼の和歌に
大江山こえていく野の末遠み 道ある世にもあいにける哉 (新古今)
大江山(老ノ坂)を越えて生野に至る道が遠いという連想は小式部内侍が歌をよむ前から広く知られていたらしい。
異民族
古来、日本には様々な異族が割拠していたらしい。
馬場あき子は「鬼の研究」のなかで土蜘蛛と呼ばれる人々の逸話を列挙している。その中には女性の土蜘蛛、巫女らしき土蜘蛛もある。中には当地の民衆が土蜘蛛に加担したという記述もある。
「古事記」に記された丹後の逸話のなかでも青葉山に棲む陸耳御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛を討伐した逸話は3つの鬼退治伝説のなかでも最も古いものであると考えられる。この逸話が麻呂子親王、源頼光といった他の鬼退治の源泉となったことは想像に難くない。
大和王権が奈良以外の地方勢力と婚姻関係を結んだ最初が丹後の媛であったことについては先に触れたが、大和王権は決して圧倒的な存在ではなく様々な地域勢力と婚姻関係による平和的な同盟関係を結ぶことが多かったと考えられる。
時には軍事的な衝突、征討もおこなわれたが、大和王権に逆らい討伐された存在の代表が土蜘蛛と呼ばれる人々である。土蜘蛛という名称の連想から後世には巨大な蜘蛛に牛の首を持った妖怪が描かれるようになった。
土蜘蛛について背は低いが手足が長いという記述もあるが、これは「蜘蛛」という名称からの連想ではないかと考える。そうした特徴的な骨格を持った人骨が発掘されていないことからも明らかである。
土蜘蛛については「風土記」のなかに記述が多く、穴居することが特徴とされる。穴居とはいかなることであるか長らく疑問であった。埼玉の吉見百穴(よしみひゃっけつ)のようにまるで団地のような横穴に住んでいたかと思っていた。
従来、縄文時代の竪穴式住居は茅葺きで再現されることが多い。
ところが近年の発掘調査をから竪穴式住居は土屋根であったとする説が支持され始めている。
竪穴式住居の建造方法は地面を掘り下げて屋根の柱と屋根材を立て掛けるものであった。その屋根は従来は茅葺きと考えられていたが、掘り起こした土を屋根に積み上げた土屋根であったという説が有力視されはじめている。掘り下げた土を屋根に積み上げたと考えると合理的な工法である。
そして土で屋根を拭いた竪穴式住居は遠目には穴居とも巣穴のように見えるのである。
鬼は権力にさからい民を苦しめるものとして征伐されることが多いが、地方で平和に暮らしていた集団のもとに突然、軍事的な侵攻が行われたこともあったはずである。
歴史というものが必ず勝者に都合よく書き換えられるものだからである。私達が鬼について書かれたものを見るときに、そうした疑いを持つ必要があるのではないだろうか
金属と鬼
鬼の存在を解明するにあたって金属がひとつのキーワードであるように思う。
鬼の伝承に岩石、金属にまつわるものが大変に多い。
鬼とされた人々の多くが採鉱、精錬、冶金などに関わっているという特徴が多くの研究者によって指摘されている。
鬼(オニ)とは隠(オン)であると説明されることがある。
そして目に見えないとは、実体が無いという意味ではなく洞窟や坑道などの地下に潜ることを意味するともいわれる。
日本には5000以上の前方後円墳が存在していたとされる。
そうした巨大な墳墓などの歴史的遺物は大勢の人々の労力によって建造されたものだが、そうした圧倒的なスケールの建造物はそれを作った<大きく強き人>を想像させた。このことが鬼の生み出すひとつのきっかけになったのかもしれない。
奈良県高市郡明日香村にある鬼の俎(おにのまないた)、鬼の雪隠(おにのせっちん)はいずれも古墳の石棺の一部であったという。それらから巨人、剛力を想像したことは容易に想像できる。
英国のストーンヘンジに代表されるストーンサークルやヨーロッパ各地のメンヒル、ドルメンといった巨石石造物からそれらを巨人が作ったとする見方が生まれたことと一致している。
加佐郡の3つの鬼退治伝説の舞台は青葉山、多袮山、大江山であり、いずれも山間である。
青葉山に登ると至るところに溶岩の岩塊を観ることができる。
山そのものが神の宿る存在であった。青葉山については項を改めて述べたい。
筆者の調べた範囲で多禰寺という寺名は他に無いものであるが、福井県坂井市丸岡町に多禰神社(種神社)という古社が存在する。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る由緒正しき古社である。「多禰」という名称は極めて稀な呼称であることは間違いない。
鹿児島県の種子島は古代では屋久島と共に「多禰国」と表記された。
近世に種子島が鉄砲の異名であることはよく知られている。
1543年にポルトガル人が種子島に“漂着”して日本に初めて鉄砲を伝えとされ、1543年は「鉄砲伝来の年」として教科書に記されている。
種子島には鉄砲伝来後まもなく鉄砲の製造に着手している。
このことは種子島に非常に高度な製鉄技術が在ったことを示している。
最先端技術であり、最新兵器であった鉄砲を携えたポルトガル人が偶然に当時最高水準の技術力を誇っていた種子島に漂着したというのは出来すぎた話である。
また種子島に横峯遺跡は3万5千年の鹿児島県最古の遺跡群が存在する。
多禰(種)とは製鉄に関する言葉ではないかとも考えているがまだ確証が得られていない。
種子島では砂鉄鉄製品の生産も行われていたことから
多禰(種)という言葉に砂鉄という意味があるとされる。
吉備国は製鉄が盛んであったことが知られている。
また吉備津の釜で知られる温羅(うら)という鬼退治の伝承が有名である。
岡山の地名を研究している浦上宏氏は「タネ」という言葉は砂鉄を指すとして
「種石」(鏡野町竹田)
「種井」(総社市種井)
などの地名を挙げておられる。
他にも兵庫県南西部の千種川(ちくさかわ)が国内有数の砂鉄産地であったこと、九州の製鉄先進地域であった種子尾(たねお)などタネ(種、種子、多禰)と製鉄の結びつきは非常に深いと考えられる。
但し残念ながら多禰寺の近傍で製鉄に関する事例は見聞したことがない。
一方で多禰寺についてはこの地域に辰砂(硫化水銀)の産地であったことが確認されている。辰砂を精製した水銀は金メッキに不可欠な原料であり古代、中世には重要な金属資源であった。
多禰寺の後背地は大丹生という地名であり、麓に赤野という地名がある。舞鶴から若狭にかけて「丹生」もしくはそれと同音、類音の地名が多数点在している。こうした地名は辰砂の採掘された地域に多いとされている。
大江山の鬼退治とほぼ同じ内容の鬼説話が残る伊吹山付近にも丹生にまつわる地名が多いこと、退治された飛騨の両面宿儺の根拠地が大丹生岳から発する丹生川(現在の小八賀川)であるなど辰砂と鬼には深い関係があるようである。
多禰は訓読みでは「おおに」であり後背地の大丹生(おおにゅう)に類音であることに注目している。
浅草(あさくさ)にある寺院が浅草寺(せんそうじ)であるように同じ言葉が音読み、訓読みで異なる。当地に近いところでは福井 飯盛寺(はんせいじ) その後背にあるのが飯盛山(いいもりやま)である。
製鉄、辰砂(硫化水銀)いずれも鬼といかなる関係があったのかは今後の課題である。
仏教と鬼
仏教と鬼の間には深い関係がある。鬼が生まれた源のひとつには仏教にあるのではないかとすら考えている。
お盆に行われる施餓鬼法要は「餓鬼に施す」という意味である。
では餓鬼とは一体何化と言われればこの場合の「鬼」は角の生えた鬼ではなく亡者(魂)のことである。
死後に祀ってもらえない、即ち食べ物を供養してもらえない哀れな亡者に食べ物を与えて供養してやろうというのが施餓鬼である。そしてこうした可哀相な亡者に施すという大きな功徳を各家の先祖の振向けて先祖にまた大いなる善果をもたらすというのが施餓鬼法要である。
人が亡くなることを『鬼籍に入る』という。
鬼という文字が亡者の意味であることが分かれば「鬼籍」というものが死者の名簿であることはいうまでもないだろう。
仏像には4つの種類がある。
如来、菩薩、明王、天部という区別が有り、天部が最も位が低いとされる。
天部の仏像は実は最もバリエーションに富み、魅力的であるともいえるのだが、その多くは仏教以前から信仰されたインド土着の神々であることが多い。
こうした神々は仏教に取り入れられることで仏教徒を守護したり、福徳を与えるという役割が与えられた。
本尊の周り囲む四天王や山門の仁王(金剛力士)が天部の代表である。
山門に祀られた仁王像は巨大な体格、恐ろしげな表情を浮かべ、手には金剛杵という武器を持つものが多い。恐らく最も多かったのは全身を赤色に塗られていたことである。こうした仁王像は赤鬼のイメージにつながっていったのではないだろうか。
鬼といえば牛の角を生やし、虎皮の褌と相場が決まっていて、その説明として鬼の出來る東北の方角が艮(うしとら)であるから牛の角、虎のふんどしともいわれるのだが、天部の仏像はは豹皮のマントや虎と思しき獣皮を腰にまとうもの、獅噛(しがみ)といってライオンをモチーフにした飾りをまとうものが少なくない。こういった仏像の装束も鬼の外見を発想させるうえで影響を与えたのではないだろうか。
風神雷神やなどの天部の諸像は我々の知る鬼の形に近いものがある。近藤善博「日本の鬼 日本文化探求の視角」は鬼に関する貴重な論文集だが蓮華王院(三十三間堂)の雷神象の写真がカバーを飾っている。
三十三間堂の風神雷神は国宝に指定され日本最古の風神雷神象だが、堂内を見下ろし、口を開いた恐ろしい形相である。写真で観ると顔半分が暗く、見ようによっては1つ目に見えなくもない。総髪は上にたなびき、太い毛の束がそそり立っている様子は無数の角のようにも見える。
僅かな灯明の明かりのなかで観る明王や天部の仏像は光線によって様々に見えたに違いない。仏堂という特殊な空間のなかで見る者の意識もまた平時とはことなった狂おしい気持ちになったかもしれない。
仏像の多くは宝冠をかぶっていたり、頂髻相(ちょうけいそう)といって頭髪が二層になっている。
仏像は多くの場合、頭部に特徴を持っていた。このことも鬼の外見、特に角を生み出すのに影響を与えていたかもしれない。
もうひとつ仏教との関わりで見逃せないのは地獄という死後の世界で亡者を責め苛む獄卒が絵画などにビジュアル化して盛んに描かれたことである。
牛頭馬頭という牛と馬の頭を持った獄卒が多く描かれたが、このうち牛の角が鬼の角へと変化した可能性も無視できないからである。
特に平安時代以降の極楽往生思想は遍く流行し、極楽への憧憬を生む反面、地獄への畏怖は非常に大きなものがあったのではないかと考えられる。
不動明王や天部の怒りの表情は憤怒形とされる。この怒りの表情のは人間的な怒りではなく、あくまでの仏の慈悲や智慧を離れることのない怒りである。
私達は感情や利害で怒ることが多いが仏像の怒りは正しい道に導くための怒りであることを忘れてはならないだろう。
蝦夷俘囚
鬼のイメージの源泉は数多考えられるが、そのひとつは武士ではないかと考える。
武士は庶民に隔絶した圧倒的な戦闘力を持ち一般の庶民に対して君臨し、時に略奪をほしいままにした。
8世紀末から9世紀初頭、蝦夷地の征服が進むにつれて大量の蝦夷が朝廷に帰属するようになった。全国に分散されて強制的に移住させる政策を行った。
強制移住である反面、蝦夷には食料をはじめ様々な優遇が与えられていた。
蝦夷は狩猟の特権を与えられ馬の飼育、乗馬、騎射などを行った。練達の武人として蝦夷1人が平民10人に匹敵するとされた。そのため蝦夷は各地での盗賊の平定にも利用された。一種の傭兵として使役されることが少なくなかった。
近年の研究により蝦夷の存在が武士の成立に決定的な役割を果たしたという見方が生まれている。
武士の戦闘法として乗馬した状態から刀を振るって戦うスタイルが確立するに際して蝦夷の武器であった蕨手刀(わらびてとう)や騎馬戦法が進化したという指摘もある。この蕨手刀が日本刀の原型となったことは注目に値する。
全国に移送された蝦夷は当時の一般の庶民からすれば異人に映ったと思われる。そして時に発揮される尋常ならざる戦闘力や破壊の姿を見て強烈に印象付けられたのではないかと思われる。このことが鬼のイメージの形成に及ぼした影響は少なくないのではないだろうか。
蝦夷の居住地には『別所』という地名が多く、柴田弘武は全国に500近い「別所」の地名を調査している。
蝦夷は高度な製鉄文化を持っていたとされるが、別所という地名の近くに鉄、銅の鉱山が見られる。薬師如来が祀られることが多いとされる。
舞鶴にもいくつか別所という地名があり、ひとつは伊佐津川支流・池内川流域の山間である。かつては銀・銅・硫化鉄を産出していた。近傍に舞鶴鉱山があり銅を産出していた。近世、田辺藩はこの銅を精錬して大砲を鋳造した。
1つ目の鬼と巨人伝承
ギリシャ神話にはキュプロクス(サイクロプス)という単眼の巨人が登場する。
このキュプロクスという巨人についての興味深い説が唱えられている。
それは発掘されたナウマンゾウなどの巨大な哺乳類の頭蓋骨から連想されたものであるという。機会があれば象類の頭蓋骨の写真をネットで検索していただきたい。
象類の頭蓋骨の中央には鼻腔の部分が大きく空洞になっていて。眼窩は左右にごく小さく目立たない位置にある。 古代の人々がこうした頭蓋骨を発見したら1つ目の巨人を連想したかもしれない‥と思わせる形状である。
日本にもダイダラボッチという巨人の伝説が広く分布しているが、日本もナウマンゾウな大型の象類が生息していたことは知られている。
古代人がこうした大型哺乳類の化石を発見した場合、巨大な骨格から巨人を連想したのかもしれない。ダイダラボッチの伝説は鉱山と関係があるという指摘もあるが、鉱石を求めて採掘中にこうした化石が発見されたのかもしれない。
中国では象、犀、鹿、馬など大型の哺乳類の化石を竜骨という名称で漢方薬の素材として利用されている。その中には恐竜の化石も含まれているという。
古代中国の甲骨文字が発見されたのも竜骨として買い求めた亀の甲羅に文字が刻まれていたことがきっかけであったという。北京の周口店から発見された北京原人が著名である。周口店は元来、竜骨の採掘が盛んな地域であった。おそらく竜骨として化石を採掘している際に発見されたのが北京原人の化石だったのだろう。
日本の文献に「鬼」として初めての記録されたのは「出雲国風土記」であり、鬼の出現が記録されたのは現在の島根県大原郡大東町であったという。そしてその鬼は眼がひとつであったという。日本で最初に記録に現れる鬼が1つ目であるというのは大変に興味深い。
1つ目の鬼という存在はとても古いだけではなく鬼とはなにかを考える場合とても重要であるといえる。
鬼と金工史の関係を調査した谷川健一や若尾五雄らは1つ目が金属精錬により生じたとする。
精錬において科学的な計測手段の無い時代は肉眼で炎を観察してその色の変化を判断の材料としていた。
片目で炎を凝視することで眼を痛めることが多く、金属加工に携わっている者には片目の視力のない、“1つ目”が多かったという。金属加工に携わる地域では薬師如来が祀られることが多いという。薬師如来は医薬の加護を与えるが、特に眼の病気に効験があるとされた。そのことはつながりがあるにちがいない。
疫病としての鬼
枕草子四十三段に一節に蓑虫を鬼の子であるとする一節がある。
蓑虫の小さな幼虫がなぜ鬼の子供とされるのか‥それは鬼が蓑をまとっていると考えられていたからであるという。蓑を着ている蓑虫は鬼の子であるとされたのである。
現在では鬼の装束といえば虎の皮のふんどしと相場が決まっているが、平安時代には鬼が蓑をまとい笠をかぶると考えられたものであったらしい。それはまた神の装束であったらしい。秋田のなまはげなどはそれに近いかもしれない。
笠をかぶり蓑を着るというのは自分の姿を隠すという行為を暗示しているように思う。
それは神(鬼)が眼に視えないとされたこととどこかでつながるだろう。
鬼(オニ)が隠(オン)であったとされ。鬼とは不可視の存在であるとされたことが多かったようである。
疫病、特に天然痘は長く人類を悩ませた存在であった。
医学の未発達の時代にあってそうした病を予防することも治療することも困難であった。
また都市に人口が集中し、人や物の流通が活発になると人口密度の高さゆえに多くの犠牲をもたらした。
外国との交流が異国から伝染病を運んできたこともあったに違いない。
それは視えざる何かを想像させた。
特に天然痘は感染力が強く死亡率が高いことから恐れられた。
天然痘の赤い発疹が現れることに対して非常な恐怖があった。
天然痘は体に疱瘡(かさ)が生じる。
ところが鬼のまとう蓑と笠は「みのかさ」であり、
蓑笠(みのかさ)→身のかさ(疱瘡)
と簡単に習合していったのではないか。
天然痘は赤く発色することから赤色を天然痘避けのまじないに使う一方で疱瘡神を赤色と捉えたこともあったようである。
高橋昌明の「酒吞童子の誕生」では、酒吞という名称から赤い顔をした酒吞童子を疱瘡神に見立てた絵図を紹介している。
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