水着で文明化 心、不思議なるもの
境内の横に川が流れている。
境内に沿って少し上手に行くと、踝ほどの深さの浅い川になる。
ここは幼児が遊ぶには好適な場所で娘のお気に入りスポットになった。
娘は毎日のように水に入っていた。
日に何度も服を水に濡らし、着替えさせ、洗濯する妻も大変だったと思うが、
いつの間にか素っ裸で川に入るようになった。
いくら人気の無い公園とはいえ、裸とはいかがなものか。
暫く前に大阪から娘と同じ年代の子供さんを連れた友人夫婦が遊びにきてくれたが、
娘が突然裸になって川に入るのでドン引き…
さすがに裸が習慣ではマズいので一計を案じ水着を購入。
水着は娘のお気に入りとなり、川遊びのユニフォームになった。
野生児が少し文明化したようである。
暫く前から朝起きた時に夢を書きとめるようになった。
起きた直後は生々しい夢もしばらくするとさっぱりと消えている。
この感覚は面白い。
だが書きとめた夢を分析すると案外単純で、自分が潜在的に心配していることや、その日印象に残ったことがストーリー化されていることに気が付いた。
法事の後、お墓参りにいくが、お墓に古い塔婆があると持ち帰ってお焚きあげする。
お焚きあげした夜にやはり塔婆の夢を観た。
法事で塔婆を持ち帰る私
→別件で法事にいくが塔婆を忘れる
→手元にあった古い塔婆で間に合わせて法事をする。
→途中で反省して塔婆をとりに帰りちゃんと法事をすませる。
…みたいな夢をみた。
塔婆というのはカバンとは別に持っていくので忘れる可能性がある。
多分、そのことを潜在的に心配しているのだろう。だからといって本当によその家の古い塔婆で法事をすることはないが。
もうひとつ思いついたのはお盆の施餓鬼に使う塔婆をまだ書いていないことだ。
何十本かの塔婆を書くというがお盆の大事な準備だが、まだ手を付けていない。
きっとそのことが夢に反映しているのだろう。
明日から塔婆を書くことにしよう。
私達が自分だと思っている意識=顕在意識に対して、遥かに巨大なのが潜在意識だと言われる。
潜在意識という巨大な水面に島のように浮かんでいるのが顕在意識=「私」だと言う人もいる。
夢というのは顕在意識と潜在意識の接点のようなものではないだろうか。
顕在意識の孤島の浜辺から潜在意識という大きな水面に一歩足を踏み入れた時、踝を浸す水の感覚…そこに夢があるのではないだろうか。
仏教には唯識という考え方がある。
三蔵法師こと玄奘三蔵を開祖とする法相宗(ほっそうしゅう)が唯識を説く。
日本では奈良の薬師寺が法相宗として有名である。
(法隆寺や清水寺もかっては法相宗であったらしい)
私の心というのは実は遥かに巨大なもうひとつの心にぽつんと浮かんでいて、私はそのことあまり自覚していない。
だが私達に訪れる衝動、欲望、恐怖、嫌悪、嗜好にはこの潜在意識の作用が大きく働いているとされる
私達は表面的な自我である<自分>より遥かに巨大な潜在意識を認識できず、一方でその潜在意識からの働きかけによってつき動かされている。
人間の心とはなんと不思議な存在ではないだろうか。
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