除夜の鐘 阿字のふるさと

「除夜の鐘はつかれないのですか?」


時々質問を受ける。

あるいは


「除夜の鐘はつかれるんですよね?」


などと言われる。


どのお寺にも鐘があり、除夜の鐘をついていると思っておられる方も多い。


朝夕に鐘をつくお寺も多いが、鐘をつくというのは物理的な時間を知らせるという役割の他に、鐘の音を聴くものの心を清める、迷いを解くという意味あいがあるようである。


除夜の鐘が108回つかれるのも108は煩悩の数といわれるところから108の煩悩を払うという意味になるのであろう。


山寺には鐘楼があるが、鐘はごく小さなもので、梯子で登って座って叩くようになっているので、一般にイメージされるような除夜の鐘をつくようにはできない。かなり地味な感じの鐘なので「除夜の鐘をついた!」というような達成感があまり無いのが少し残念である。というわけで除夜の鐘をつくという行事を久しく行っていない。


その代わりというわけではないが深夜0時前から年越しのお勤めを本堂で行う。


先ほど本堂でお勤めをおえて庫裏に帰ってきた。



お勤を始めるのと同時に港から新年を告げる護衛艦の汽笛の音が聞こえた。港からそう近くはないがかなり大きな汽笛を響きを聴く。


夜半から雨との予報もあるが雪の降らなかったは幸いである。







昨日、「アルプスの少女ハイジ」でクララの朗読する讃美歌の1節、「ふるさとへ かえっていくような たのしいきもちで あのよにいけるように」について書いたが、御大師様の作られた和歌である


阿字の子が 阿字のふるさと 立ちいでて また立ち帰る 阿字のふるさと


のことを思い出された方があった。


サンスクリットの阿字は胎蔵界大日如来を表すだけでなく、トランプのジョーカーのように全ての仏を表すこともある。


阿字は不生不滅の永遠の存在性を表す共に仏教哲理のとしての空を表すともされる。


人は仏の世界である阿字から生まれ出で、また還ってゆく。


私たちが生まれたところも還ってゆくところも同じく仏の世界であると謳われている。


あるいは生まれるも還るもなく終始、阿字の中にいる、阿字と同体であることに真言宗としての眼目があるのだと思う。


この歌は御大師様の愛弟子であり、後継者とも目された智泉大徳が若くして亡くなられたときに詠まれたとされる。


人間がどこから生まれどこへ逝くのか知悉されていた御大師様であっても我が子同様に慈愛された池泉大徳の早逝はどれほど悲しかったであろうかと思われる。「阿字の子」という言葉にはどこが「我が子」というような含意を感じる。


そんな御大師様の最愛の弟子を失った悲しみを仏様の慈悲と智慧で包みこんだような響きがこの歌にはあるように思う。







今年も無事に過ごせたことを喜び、多くの人々の幸多かれと願わずにはいられない。


皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
                               合掌


                        ぶろぐ坊九拝


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