龍神来臨 依存の話
Youtube初めて水上竜巻というのを観た。
自然の神秘というべきか。
先日、若いお坊さん二人と歓談。
お一人はパソコン大好きなお尚さん。
タブレット持参でやってきて、会話中も画面を見ながら「解像度がナンチャラで、スペックがナンチャラ…」みたいなお話をされる。
対するもうひとりの和尚さんはパソコンやネットに関心無し。全く無し。
もっとも上手くしたもので、このお寺の檀家さんに大変詳しい方が居られて、寺にはちゃんと立派なホームページがある。
ここ10年くらいでパソコンとネットは完全に生活の一部になってしまった。
こういった環境にどの程度適応すべきかどうかと考えることもある。
人生について考えるひとつの切り口として依存という問題があると思う。
自分が何に依存しているかということを考えるのはとても大切だと思うのである。
人からの評価、過去の栄光、未来への希望、眼の前の楽しいこと、仕事、子育て…
誰もが何かに依存している。
そのことは間違いない。
依存せずに生きられるほど普通の人間は強くない。
強いとか弱いではなく、人の常態として依存というものがあるのだろう。
赤ん坊は母親の母乳に依存している。
子供が親に依存するということが依存の原型なのではないだろうか。
だとするとキチンと親と子の関係を築けないと、依存ということも正しく果たされないことになる。
子供を育てるひとつの柱は絶対の安心感であると思う。
単純にいえば幼い子供が求めるままにおっぱいを与えられるその安心感であろうか。
だが子供を育てるもうひとつの柱は自立である。
動物の母親は子供を命がけで守るが、同時にある時期に達すると子供を放逐することが多い。極めてクールで強制的な自立が果たされる。
この真似は人間にはできないことである。
最近の親子関係をみていると母親が子供を自分のものとしてしまい、自立ということを果たせない存在にしていることがあまりに多いように思う。
子供は自立ができないだけでなく、親もまた子供に依存するという関係を抜け出せない。
このことで親も子供も不幸になる。そのことは大変に残念である。
他国に脅かされても毅然とした態度をとれない日本の現状を観ていると、自立なき依存という心の在り方が日本人にとってとても深い問題なのではないだろうかと思わずにはいられない。このことは折にふれて考えてみたい問題である。
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