早朝の訪問者  8月17日にソ連軍は上陸した

午前7時。猿のけたたましい鳴き声。それに反応するコーギーの声。



老僧が「庫裏の前の栗の実を全部食べられた!」とかなり残念そう。


栗の木の下にはイガが散乱していた。何しろ猿は栗のイガを素手で平気で剥くのだから恐れ入る。


山門の前の公園にも子猿が沢山いるというのでせめてブログネタにでも…と思いカメラ片手に出かけたが、微かに猿の獣臭が漂っていただけだった…



本日は兼務寺院の多禰寺へ。 



山寺の山門を出るとすぐ脇に防火水槽があるのだが、その脇にサギが立っていた。



身長は1メートル余り。多分アオサギという種類らしかった。防火水槽の金魚を狙っていたのだろう(サギは基本的に肉食らしい)。



サギは普段は川や田んぼで見かけることが多いが直近で見ることはまずない。
雨に濡れて、灰色がかったサギが静かに立っていたのが妙に印象に残っている。






8月17日、ソ連軍上陸す―最果ての要衝・占守島攻防記

8月17日、ソ連軍上陸す―最果ての要衝・占守島攻防記







北方領土から島々の点在する千島列島を経てカムチャッカ半島にいたる。


北海道から北方領土、千島列島という小島を飛び石伝いにユーラシア大陸であるカムチャッカ半島に至るのである。


少し想像を逞しくすれば島伝いに航行すれば容易に日本列島とユーラシア大陸を往来できたはずである。



千島列島の最北端に位置するのが占守島(しゅむしゅとう)である。
終戦当時の日本にとって最北の日本領であった地域である。



(できれば北方領土、千島列島、カムチャッカ半島…これらの位置関係をもう一度、確認して頂きたい。ネットなら僅かな時間である。)

【関連記事】http://www.city.shiogama.miyagi.jp/html/kankou/urato/history/rakko/rakko-senn-kiti-shumushu.html


昭和20年8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日終戦詔勅が発せられた。
だが、17日深夜、占守島対岸のカムチャッカ半島からソ連の大部隊が侵攻を開始した。



ソ連のこの所業はまことに非道な行為と言う他ない。



日本は自衛戦闘を開始し、占守島を中心とした戦闘は3日間に渡り続いた。



もし、この戦いで日本が容易に敗走していれば、ソ連は易々と北海道を制圧し、奥州すらその勢力範囲に収めていた可能性があるとされる。



北海道が今も日本国である最大の理由はこの占守島の戦闘を果敢に戦いぬいた人達がいたからであるとされる。



この事実は近年ようやく明らかにされつつあるが未だ不明の点が少なくないとされる。





南方での対米戦でも日本は激烈な戦闘の末に玉砕を重ねた。



私達には想像すら困難な状況だが、当時、南方で戦った方々は無謀な戦闘に必ずしも必勝を期していたわけではない。




1日でも戦闘が長引けばそれだけ本土の守りが固くなると信じて戦った方が多かったのである。



最近、いくつかの戦記を読んで、ようやくそのことに気が付き、その真摯な思いに心が揺り動かされる思いだった。



沖縄においても日本軍は民間人を犠牲にした…という側面ばかり強調されがちだが、当時のアメリカ軍の手記を読むと、日本軍の抵抗は信じがたいほど強烈なものだったことが分かる。



武器弾薬も食糧も無い。相手は圧倒的な物量と装備を有している。



その状況下で自分達の抵抗によって本土への侵攻を遅らせることを只管願い続けたのである。




自分の生命を散らして国土を守り、国民を守ることを願った大勢の人達が居たのである。




戦争を是とするつもりは毛頭ない。




だが日本という国の領土を守る為に命を捧げた多くの方々の犠牲の上に平和があり、領土が保たれているのである。



その先人の深い思いに心を致さない人々が国政を担うべきではないと思う。




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