仏様の励ましは痛いこともある 

冬の底のような寒さである。

午後から吹雪。


明後日28日は今年初めての初不動なのだが予報では暴風雪…



先日、何人かのお坊さんとお話する機会がった。


私が座禅をしにいくというつもりで「参禅」という言葉を使ったら臨済宗のお坊さん曰く


「『参禅』とは公案を出されることですよ」


と言われたのでちょっとびっくりした。



曹洞宗のお坊さんは私が言う「参禅」という言葉の使い方は間違っていないという。



同じ禅宗でも言葉の使い方は微妙に違うらしい。



座禅といえば警策という棒を持ったお坊さんが巡回?しているというイメージがある。


この警策曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と呼び方が異なる


ちなみにこの警策はただの棒ではなくて<文殊菩薩の手>と考えられているそうである。
文殊菩薩様が手を差し伸べて励まして下さっているというわけである。



だが曹洞宗臨済宗のお坊さんが話始めると真言宗の私には意味不明の箇所多数…



もっとも当地舞鶴は城下町だった関係で禅宗のお寺が多くて、自然と禅宗の御住職とお話する機会が増えるので少しは禅宗の言葉にもあまり戸惑わなくなった。



慣れないうちは本当に戸惑ったこともある。



禅宗の方の会話では「老師」という言葉が良くでてくるが最初、私は「老子」だと勘違いしていたくらいである



老子 (岩波文庫)

老子 (岩波文庫)


ちなみに現代中国語で「老師」は日本語の「先生」に該当する。
だが日本の禅宗では「老師」はかなり教えを極めた人に対して使う尊称のようである。


そういえば…


本山での修行中にうっかり眠りそうになった時、誰かが肩に触れて眼が覚めた。


後ろには誰もいないのである。


まさか文殊菩薩様ではないと思うが…


真言宗では加行(けぎょう)という修行がお坊さんになるために課せられる。




加行中は無我夢中だったが、先輩や同輩やいろんな人に助けられ、見守られていたのだと今にして思うことがある。



自分が大変な時は見えていないものが沢山ある。



そしてそんな自分を暖かく見守り、手を差し伸べてくれた人達のことを忘れないようにしたいと思うのである。



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