陰翳礼讃


 普通の人の抱くお坊さんのイメージというと多分、禅宗の影響が大きいのでなないかと思う。例えば<座禅をしているお坊さん>の印象というのはとても強いのではないかと思う。
しかし、仏教の数ある宗派の多くは座禅や瞑想をしない。座禅をしているお坊さんというのは<いけずな京都人>とか<タコ型宇宙人>くらい実態とかけ離れている気がする。

 ただいろんな理由から私は座禅や瞑想というものを行ったほうがいいのではないかという気がしている。お坊さんだけでなく、何かに追われるように生き、或いは心を駆り立てられ続けている現代の人間の誰もが心を落ち着かせ、内面を見つめる時間を持つべきだと思う。

 私が座禅をする時は大抵、寝る前に布団の上で行うことが多い。
 この時期、電燈を消すと部屋は真っ暗になるが眼が慣れてくると、障子の白さが暗闇の中にぼんやりと浮かびあがってくる。黒い格子もだんだんはっきりしてくる。この光景に心を引かれる。特に月が出ている時、縁側に面した障子がうっすらと光りはじめるのを見るのは心地良い。

 日本の文化には枯淡といっていい色や光もあり、また逆に原色やぎらぎらした感じの色や光の両方があるように思う。
 当山の本尊である阿弥陀様も今はお顔に金箔が残るばかりだが、作られた当初は全身を金箔で覆われ、光背もまたまぶしいような金色に輝いていたと考えられる。ただそれは今日のような蛍光灯の煌々とした明かりでなく、蝋燭の炎に照らされていたはずである。蝋燭は時に揺らめき、また燻じられた香の煙が流れていたはずである。そんな光景を想像するのは楽しい。

 日本人にとっての「有り難い」という感覚は仏像ができた当初の華麗な姿よりも、時代を経て装飾を失った仏像のほうに感じられるのは興味深い。だが本来は強烈な輝きを放った仏の姿こそが日本人にとっての仏教のイメージであったと思う。
 日本人の美的感覚を枯れた、淡い、簡素なものに閉じ込めてしまうのは多分偏った見方だと思うが、布団の上で薄ぼんやりと障子が月に輝くのを見ているとやはり間違いなく日本人の好んできた柔らかで穏やかな時間と空間の中にいることが感じられ、心惹かれる。