「賢い身体バカな身体」補遺〜気の巡る関係

【山寺の本棚】

賢い身体 バカな身体

賢い身体 バカな身体

 昨晩、桜井章一氏と甲野善紀氏の対談集「賢い身体バカな身体」を読了。

 その中に面白いエピソードが書かれていた。桜井章一氏は甲野善紀氏と対談していると、老眼で見えなかった細かい文字が眼鏡なしでも見えるようになったことがあるというのである。

 これはどういうことだろうか?

 自分が心を許せる相手と居ると、深くリラックスできる。深くリラックスできると東洋医学でいうところの<気血の循環>が良くなり、その結果、老眼が改善したというべきだろう。(老眼もまた改善するものなのだ!)

 もうひとつは、そうした理想的な相手と対していると、両者の間で活発に気が巡り始めるということでもあると思う。
 気というのは物理的な身体を超えて行き来するものだからである。
 <気血相依>といわれるように、気の循環がよくなると血の循環がよくなる。結果として身体の<気血の循環>が良くなるのである。会話が弾むというが気が巡り始めると頭の回転が良くなることも当然起こるだろう。



 「一緒に居て楽しい相手」の反対を考えると、もちろん「一緒に居て楽しくない相手」もアリだが、私の感じでは「一緒に居て疲れる相手」ではないかと思う。

 <楽しい⇔楽しくない><疲れる⇔疲れない><元気になる⇔元気になれない>は深くつながっているのだ。

 心と身体はつながっているし、特に意識や気というものを媒介にして眼の前の相手から大きな影響を受ける。

 お互いに「気を生かせる(活かせる)関係」というのは素晴らしい。その逆は「気を殺す(気を削ぐ、気をそらされる)関係」である。

 「一緒に居て疲れる」といってもいろいろあって「相手の毒気に当てられる」みたいなのもあれば、「お互いに気を遣いあってお互いに疲れる」とか、「相手はにこやかな態度なのに何かチクチクしたものを感じる」…こうした様々な対人関係で疲れた経験は誰にでもあるだろう(笑)


 気の世界というのは目に見えない世界だが、感じられる世界である。
 それは決して特別なものではない。なぜなら相手に気を遣うことにかけては世界一の日本人にとっては気の世界というのは日常茶飯の経験なのだから。

      ※       ※        ※
   せっかくなので対談からいくつか語録を抜粋しておこう


 固定観念にとらわれないから、プロが驚く動きができる (甲野善紀

 
 不利な状況が身体に革命を起こす(桜井章一

 
 科学的な説明というのは、「このときにこう」という単線上の2つの関係でしかできない。しかし人間は同時にいくつものことを起こすことができる立体的空間に生きているわけです。しかしその全体を現代の科学的方法で記述することはできません(甲野善紀)  


 私は最終的には「気がする」という感覚によってやっているんです。「アガれる牌はここにあるよ」、そういう気がしたら本当にその牌でアガれるだけなんです(桜井章一

【追記】

明日は本山講習会出席に為更新をお休みさせていただきます。合掌