ひとつ上から見る
時々、中学生の頃を思い出すことがある。
大人でもなく、子供でもなく、とても不安定な時期だったように思う。
中学生の頃を含めて思春期というのは心が常に揺れ動いていた。
些細なことで悩み、煩悶し、落ち込み、狂喜し、自暴自棄になり、有頂天になり、自己嫌悪した。
今から考えるとそのひとつひとつが笑ってしまうほど取るにたりない、些細なことが多い。
クラブの先輩に一言褒められて有頂天になり、
アニメの最終回を見逃したといって落ち込み、
好きだった女の子と少しだけ話せたといって狂気し、
自分の容姿に絶望し、
親と喧嘩して自暴自棄になった…
私は多分、ありふれた中学生の一人に過ぎなかったはずだ。
それらの全てが子供っぽく、あるいは懐かしく思える理由のひとつは私がいろんな経験を積んで、それらの出来事を<ひとつうえから見る>ことができるようになったからではないかと思う。
今の私にも沢山の悩みや課題がある。
仕事のこと、家庭のこと、健康のこと、人間関係のこと、将来のこと…
それらについて悩み、思案し、躊躇し、落ち込む…といったことを繰り返している。
だがいつか自分がもっと成長できたときに今の自分を<ひとつ上から見る>ことができるようになったとしたら今の自分が解決不可能のように思っている問題の数々が実に取るにたりないものに見えるかもしれないと思うことがある。
私達が成長を続ける限り、この<ひとつ上から見る>というレベルは無限に高まっていくように思う。
そうして<ひとつ上から見る>ということの極めて高いところにあるのが、例えば般若心経に説かれているようなく《空無》といった観点なのかもしれないと思う。
それは限り無く遥か彼方にある地点といっていいが、少しでもその場所に近づきたいとおもうことがある。
日本人の自殺が大きな問題として取り上げられている。
大きな壁にぶつかった時、無力感や絶望感の中で死を選ぶ人があまりに多い。
<死ねば楽になる>というのは大きな錯覚だと思う。
また眼の前にある絶望も無力も恐怖もそれら全てが取るに足りない、些細なことであり、易々と超えていけると感じられる…そんな心の成長というものを、なにかの形で指し示すことができたら、仏教を現代に伝えるひとつの意義が見出せるのではないかと思うことがある。