昆虫の顔


 顕微鏡写真で昆虫を拡大した映像を見ることがある。

 体長わずか数センチの昆虫の顔を拡大して見ると、巨大な複眼、鋭い顎、顔中に生えた剛毛…大抵は恐ろしく、醜くいものである。

 不幸や不安に陥る心というのは実はそのようなものではないかと思うことがある。

 将来の不安や過去の不幸を見つめれば見つめるほどその細部はよりリアルになり、心はますます暗く、押しつぶされそうになる。

 将来への不安や過去の不幸というのは<種>のようなものであって、そこにせっせと水をやり、肥料を与えて<種>を大きく育てているのは自分自身なのではないかと思うことがある。

 極端なことを言えば<不幸>というものが厳然として存在するというより<不幸>というもの見方>が私達の心でより大きなウエイトを占めているのではないかということである。


 住職は80歳に近い高齢だが、この年代の方々と話していつも思うのは戦争や飢餓や貧困といった大きな困難を体験していることで、眼の前の<不幸>というものを相対化して見ることができるのではないかと思うことがある。

 爆弾が雨あられと降ってくる中を逃げ惑ったり、その日の食べ物や寝る場所が無かったり、家が貧しくて子供の時から奉公に出されたり…

 そんな体験に比べれば、今日、眼の前にある不幸というものを私達よりずっと大きく、穏やかに受け止めているように感じることがある。

 些細なことで相手を殺したり、自殺したりしたといった報道があまりに多い。本当に残念なことだと思う。

 社会全体が自己の利益や快楽のみを追求することにあまりに偏っているのではないだろうか。自己中心の世界に生きる限り、おそらく<不幸>という感覚から逃れることは難しいだろう。
 だが<不幸>を超える感性や知性というものをどこで身につければいいのだろうか、そうした機会そのものが存在しないことに愕然とすることがある。