老僧、昔を語る


本日は兼務している山寺の三代前のご住職の法事が行われた。50年忌の法事である。

昔のお坊さんはひとつのところに留まることなくお寺を移ることが多かった。
この方も最後は別のお寺の住職として天寿を全うされた。

このお寺に私と住職が呼ばれて、本堂でお勤めをした。
お勤めの中心は「理趣経」というお経で、真言宗の根本経典である。

長いお経なので通読することは少ないが、住職と久しぶりに「理趣経」を読んでいると、もう何回こうしてこのお経を読むのかな…と思ったりした。住職は故人にとても可愛がられたそうで、何でも地方巡業に当地に来た双葉山の相撲を故人の膝の上で見たというから本当に昔の話である。

住職の読むお経の中にふと住職の感情を感じることが何回かあった、きっと故人を懐かしんでいるんだな…などと考えていたら、お経を読み間違えてしまった…


勤行の後、庫裏で丁重な饗応を受けたが、会食が始まると住職がいろんな思い出話が始まった。

住職の生まれた村はまだ電気が通っていなくて、町のお寺に来ると電球やラジオが珍しかった…というような話を聞くと、まるで夢のようである。
昭和一桁生まれの世代というのは、日本が貧しかった頃も、戦争も、戦後の復興も、バブルも、平成の不況も全てを体験している。私たちの世代とは人生経験の質も量も違う。

法事に来られた方で住職より少し若い方が「本当に昔は良かったですね」と何度も言われた。
住職の話を聞いていると、今の日本よりずっと質素だが、人々が穏やかで、のんびりしていて、逞しい時代があったことを感じる。

住職は晩酌しながら昔のことを語ることが多くなった。

それを聞くたびに思うのは物質の豊かさと心の豊かさが両立することは不可能なのだろうかということである。
この50年の社会や経済の発展は目覚しいが今の日本はあまりにも自己中心的で、殺伐としていて、狭量であると感じることが多いのである。

物質的に豊かで社会が発展し尚且つ人々が穏やかで、平和に暮らすことは不可能なのだろうか。そんなことを時々考える。

数年前に別の兼務しているお寺で山門の落慶式があった、その時に檀家さんから少し予算を頂いた。それを使って何か記念になる事業を行うと檀家さん達に約束してなだが、まだ果たせずにいる。計画は私の頭の中にあるのだが、ただ私が怠惰なために一向に進まないのだ。

老僧に昔のお葬式や暮らしの様子を語って貰って書き止め、小さな冊子を作ろうと思っているのである。なんとか今年中に作りたいが、後は私の努力次第というところである。
冊子の表題は「老僧、昔を語る」にしようと思っている。


【告知】
2月3日午前10時より節分祈願祭が行われます。年に一度の本尊波切不動明王様ご開帳の機会です。祈願お申し込みはお早めに願います。(当日参拝できない方、遠方の方には後日、御札を送らせて頂きます)詳細はHPにて。→http://ujimaccya69.hp.infoseek.co.jp/



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