お葬式の中身〜「葬式は、要らない」を読んで

結婚式の本義は神前(仏前)で神聖な誓約を交わすことにあるはずだが、いつの間にかその意義忘れられつつある。芸能人の結婚式の報道ではお色直しが何回だとか、ウエディングケーキの高さが何メートルだとか、豪華な引き出物、招待されたゲストの顔ぶれなどが仰々しく取り上げられる。

その意味で葬儀は結婚式とよく似ている。

儀式の持つ宗教性は閑却されてそれに付随する部分が、いかに派手か高額かということが儀式自体の価値になりつつある。この点は確かにおかしいと思う。

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

葬式は贅沢だから不要だというのが島田氏の「葬式は、要らない」(幻冬社)の要点である。

あの贅沢なアメリカ人でさえ葬式に44万しかかけていないのに日本人は230万も葬式に金を使っている…

だがこの島田氏の持論はキリスト教の葬儀と仏教の葬儀を同じ葬儀として比較している点でまずおかしい。

アメリカという国は自由主義の国という印象が強いが、人口のかなりの割合が毎週にように教会に行く。私達は「欧米」と人括りにしがちだが、実は欧州の各国よりアメリカ人のほうが宗教に帰依する人口は多いのである。

アメリカ人が行う教会への寄付や支援は莫大なものである。
また盛んに行われるアメリカ人の慈善活動の根底にはキリスト教の精神があるのも自明である。アメリカで宗教的なるものによって動くお金の額は日本の比ではないのである。


島田氏は仏教の儀式の中身は空っぽだと思っておられるのかもしれない。だとすれば、葬式は要らないという結論は大変納得がいく。中身が空っぽの単なるセレモニーなら、そのために高額の費用を費やすのは馬鹿げている。

葬儀を執り行うのは僧侶である。
もし島田氏が「○○宗の××という僧侶になら高いお布施を払ってでもお経を上げてもらう価値がある」と説くなら話は別だが、葬儀を一括りにしては、「要らない」と言ってしまわれると私には仏教に価値は無いと言っているようにしか聞こえない。

決して揶揄するつもりはないが、高名な宗教学者である島田氏は宗教というものについて深い信仰も、痛切な経験も無いのだと思う。

一度聞いてみたいところである。

「魂は存在するのか」「人の死後はどうなるのか」「人は何の為に生きるべきか」…

本書を読む限り島田氏はそういった宗教の根幹かかわる価値についてはあまり関心はないのだと思う。

私は真言宗の僧侶である。
真言宗では加持祈祷という儀式が昔から行われているが、僧侶である私自身が出版物やネットで喧伝されている「加持祈祷」のあまりの如何わしい雰囲気に辟易することがある。本当の宗教というものがもっと別のものに覆われている気がする。

妄信や習慣や誤解や無知や欲得や恐怖といったものが宗教的なるものにすりかわっていることがある。

多分、その不純物を取り除いた時に、宗教の本当の価値が現れると私は思っている。
その意味で葬式は要らない、宗教は要らないと一度、全否定してしまうのもひとつの手段かもしれないと思う。

その上で本当の宗教、信仰というものをもう一度探してみてはどうだろうか。
何よりも本書が提起している問題について僧侶自身がしっかり考える必要があるように思う。


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