妻が「シュッ、シュッ」と包丁を研ぐ

【山寺の本棚】

本日は彼岸の中日。

松尾寺へ彼岸の供養に出仕するのも最後の日である。
昨日は春の陽気だったが、本日は曇りと雨の交差する寒い一日となった。
風も強く、夕方はみぞれが降るのではないかと思うほど冷え込んだ。

夕方5時から最後の供養があるのだが少し早く出かけて、門前のお茶処“流々亭”で一服した。
このお店は古い民家を手入れして営まれていて、京の町屋のような風情と田舎の素朴な民家を合わせた雰囲気がある。店は少し低い位置にあり、境内の石垣が縁側のガラスを透して見える。縁側に敷かれた赤い毛氈と石垣の青と建物の落ち着いた色が溶け合ってしっくりした印象を受ける。

お店の方も素朴な信仰心があって話していて気持ちが良い。お客さんもゆったりした時間の流れを楽しむようにこのお店で寛いでおられる。

【流々亭HP】http://rurutei.net/

「読む」技術 速読・精読・味読の力をつける (光文社新書)

「読む」技術 速読・精読・味読の力をつける (光文社新書)

一昨日、古い友人である石黒圭氏から新刊の著書を頂いた。

文体の研究者に中村明先生という方がおられて、大学にいた頃、石黒氏と中村先生のゼミで机を並べて勉強した。もう随分昔のことである。

名文 (ちくま学芸文庫)

名文 (ちくま学芸文庫)

私は自分に学問の才能が無いことに気がついて早々に田舎に帰る道を選んだが、石黒君は着実に業績を積んで日本語研究の俊英として活躍しておられる。後塵を拝するという言葉がぴったりな関係である。

文章のスタイルを文体というが、文章を読むことについても人は「読体」と呼ぶべき個性があるのではないかというのが本書の出発点である。
文章を読むことの背後に何があるのか、どのように読むべきかというのが本書の大きなテーマでではないかと思う。

文脈とか、スキーマとか、ストラテジーとか聞きなれない言葉もでてくるが実はいずれも私たちが日常の中でさまざまに駆使しているもののことである。

豊富な文例が挙げられていてときにクイズのように考えたり、トリックやジョークのように楽しませてくれる。決して楽に読み流せる本ではないが、分かりやすく、楽しく、読むということを考えさせられる。


 文脈は、文章を理解するときに大きな力を発揮します。次のAとBでは、どちらがより怖さを幹事させるでしょうか。
 
A 早朝、私が布団に入っていると、台所から妻の包丁を研ぐ音が聞こえてきた。「シュッ、シュッ」
B 深夜、誰もいないはずの暗い台所に突然明かりがともり、包丁を研ぐ音が聞こえてきた。「シュッ、シュッ」


Bのほうが怖いのではないでしょうか。同じ「シュッ、シュッ」という包丁を研ぐ音であっても、深夜、誰もいないはずの台所から聞こえてくる音のほうが怖いはずです。

ところが、早朝、妻の包丁を研ぐ音に恐怖を覚えることもあります。次の文章で確認し、文脈の力を感じてください。

C きのうの夜、長年の浮気が妻にばれ、夜遅くまで激しく口論した。早朝、私が布団に入っていると、台所から妻の包丁を研ぐ音が聞こえてきた。「シュッ、シュッ」

(「第七章 文脈ストラテジー 表現を滑らかに紡いで読む力」より。※PCの用字制限の為に表記の一部に手を加えました。)

ちなみに石黒氏の奥さんはとても可愛い方で、夫婦仲も大変に宜しいので念のため…

「読体」というのは石黒氏の造語であるが、書くことに比べればはるかに独自性の少ないように思われる<読む>とい行為において私たちはとても個性的であるという意見は面白い。

牽強付会かもしれないが、このことは私たちは生きていくためになんらかのスタイルやルーティーンなパターンを身に着けざるを得ないということにつながるのではないだろうか。

物事をひとつひとつ丹念に処理するより自分の身に着けたスタイルやパターンで処理するほうが簡単で効率的である。だがそのパターンが通用しないとき、人はもう駄目だと思ってしまうのかもしれない。あるいは物事がすべて一回きりであるという大切なことを忘れてしまうのかもしれない。
そして絶望や悲しみや諦めに襲われるかもしれない。
だが、自分の挫折したのがたったひとつにパターンであって私たちは無数のパターン、無限の生き方があるということに気がつけば人生はもっともっと楽しいものになるのかもしれない。

ブログランキ
ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ウグイスの鳴く山寺に住む副住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)