多聞の刻


1歳2カ月の娘が高速ハイハイとつかまり立ちで庫裏の中をどんどん移動し始めた。おかげで全く眼が離せなくなった…

庫裏には内仏(ないぶつ)といって仏像や位牌が祀られている場所がある。
ここでも大きな香炉を引返したり、線香をバキバキにしたりと活躍中…

(けいす)という大型の鐘があるのだが、これを上手に叩く。
しかも鳴らした後、小さな手を合わせて合掌するのである。これはちょっと不思議である。

食事の前後は合掌するように教えているが、仏前で合掌する姿を見せたこともなければ、教えたこともない…

妻によれば妻が娘に「お参り」と言ったり、娘を抱いて境内に祀ってあるお大師様の前を通るだけで合掌するのだという。前世は真言僧侶か…ちょっと愉しみだったりする自分がコワい…



時々迷うことがある。

どんどん世の中が混沌としていくなかで、どのように進んで行ったらいいのか迷うことがある。

僧侶が迷っていてはお笑い草だが、正直言ってよく分からなくなることもあるのである。

先日たまたま兼務している山寺で留守番をしていた。
ここは普段住んでいる山寺よりさらに辺鄙な場所にあるお寺なのでお参りも数えるほどしかない。なのでお参りに来られた方にはできるだけ挨拶したり、本堂を案内したりしている。

母娘らしい二人連れは本堂の前で手を合わせておられたので、本堂を開けて、中でお参りしてもらった。

世間話をしているうちになんとなく身の上相談のようになり、その時私なりにいくつかアドバイスをしたのだが、二人が帰られた後、ふと気がついたことがある。

病気や経済的な問題で困っている人に対して、自分は専門的知識もなければ、財力も知力もないが、相手の話を聴くことはできるということである。そしてお寺で住職に話を聴いてもらったというそのことだけで僅かでも心の慰めを感じる人達がまだまだいるということである。

お寺というと読経とか説法のイメージがあるが、相手の話を聴くというのはとても大切だなと改めて思った。


だが相手の話を聞くというのはなかなか難しいことである。

上手く相手と噛み合って、お互いとても気い持ちの良い時間を共有できる時もあれば、「私の話を聴いてほしい」という人の中にはとても強いエネルギーをもった人もいて、話を聴いているだけでぐったりすることがある。

話を聴き始めたら相手の話が何時間も止まらなくなったという経験もある…

或る仏教宗派で「心と命の相談所」という看板を掲げているお寺がある。
たしかにお寺というのは心と命の相談所と言えるかもしれない。
実際には持ち込まれる様々な問題に途方にくれることがあるとも聞いたことがある。

人の話を聴き、相談にのるというのは時に相手の人生を背負うことにもつながる、その責任の重さに安易に相談にのるべきではないと思うこともしばしばある。

その一方で、これほどウツと自殺が蔓延している世相の中にあって、宗教に携わるものが何ができるかといえば、まずは相手の話を聴くということが出発点になるような気がする。

遅い結婚をして、子供を授かったが、命を授かるという体験すると、新しい感覚が生まれた。

それは自分が命を授かったということに対して何かをもって報いなければならないのではないかという感覚である。

ただその思いを抱いて日々生きていけばいいのか、或いはもっと別の何かをするべきなのか、それとも単なる思いあがりなのか、まだよくわからないでいる。
 ブログランキ

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