人生は苦である?桑田二郎「マンガで読む観音経」

【山寺の本棚】

行動半径の広がった娘(1歳2カ月)。

ついにキッチンの食器戸棚の中に入るという荒業をマスターした。
食器戸棚を開けたら中から娘が…というのはちょっと面白いが、ケガされても困る。しかたなくガムテープで食器戸棚を封鎖中。食事の準備がやりにくいことこのうえない…

仏教の基本的な人生観は何かというと、

『人生は苦である』

というものである。(このことを「苦諦」と表現することもある)

だが、人生は苦であるといわれると、現代人はなかなか容易には受け入れられないのではないかという気がする。いろんな意味で現代人は物質的、享楽的になっているからである。

「『人生は苦』だって?…そんなこという仏教に興味はない」

そんな返答がすぐに返ってきそうである。

人生は苦であるという仏教的なテーゼをいかに理解してもらうかが、仏教を現代に生かす上でひとつの鍵になるのではないかと思っている。


そして仏教者自身も現代人にとって苦とは何かということを考察せずに、「人生は苦である」「仏教の人生観は苦諦である」と断言するのはあまりに性急ではないかという気がする。

人生の苦というものを解き明かし、その克服方法を仏教が提示することができたら、仏教には存在意義があると私は思うのである。

仏教的な<苦>をより現代的に解釈するなら

『理性に対する感情の優越』

と表現できるのではないだろうかと思う。いいかえれば

『自分に都合の悪いことを感情として納得できないということ』

である。

それがさらに進むと、知性は一切働かず、好き嫌いや利益不利益や快不快という感情と肉体感覚だけで生きることになりかねない。それどころか知性を悪事に使うという生き方もある。
これはもう地獄、餓鬼、畜生の生き方である。

(余談だが地獄、餓鬼、畜生という区分は案外、的を射ているかもしれないと思う。知性の働かなくなるのが畜生道で知性が悪智慧になるのが地獄、感情というより貪欲という肉体感覚に支配されたのが餓鬼と言えるかもしれない)

『自分に都合の悪いもことを感情として納得できないということ』が人生の苦の出発点ではないかという気がするのである。

最近、桑田二郎さんという人の本にハマっていて、今日は「マンガで読む観音経2 霊性の進化編」(廣済堂文庫)を読み返した。

この本の中で旧約聖書冒頭に描かれるアダムとイブの物語が取り上げられていた。

エデンの園という楽園に住んでいたアダムとイブは、蛇にそそのかされて、イブは禁断の実を食べてしまい、イブにすすめられて、アダムも禁断の実を食べてしまう…』

という有名な一節がある。
この部分は桑田氏によればイブは人間の感情であり、アダムは人間の理性と知性を表しているという。蛇は人間の動物性としての欲望と肉体の象徴なのでるという。

つまりアダムとイブの物語とは肉体の欲望によって感情が支配され、それに理性が追従してしまうことを表しているのだという。この解釈はとても面白い。

知性というのはより深化すれば智慧となり、感情もより深化すれば慈悲や慈愛となる。
しかし肉体と、そこから生じる欲望に一旦負けてしまうと人間は感情に流され、知性は後退し、どんどん肉体の快不快だけを追求する生き方を選んでしまう。そのことが全ての不幸の出発点ではないか?

逆にいえば感情は知性に優越するという生き方を根本から反省することが人生の苦を乗り越える大きな鍵となるのではないだろうか。仏教の人生観をそういう解釈のもとに再構築できないか…

理性と感情を智慧と慈悲に昇華させるか、悪知恵と悪感情と肉体感覚だけの世界に堕ちていくのかという選択である。

これこそが現代人の苦の相ではないかという気がする。
そのことの恐ろしさに気がつかないと苦は無限に拡大していく。

(以下明日に続きます…)


急にBOROの「大阪で生まれた女」を聴きたくなった。
情念そのもののような歌だが名曲である。

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