苦の正体 スピリチュアルの正体
昨日の続きを少々…
「人生は苦である」と言われて、「そうか自分が苦しんでいたのは当然のことだったのか!」と納得できる人は少ないにちがいない。そういう人は相当レベルが高い気がする。
では人生における苦とは何かというと<7肉体を持って、この物質的としての世界で生きる>ということに尽きるのではないだろうか。肉体を持つということは<いずれは老い、病み、死を迎える>ということに他ならない。それに対してに肉体的感情は恐怖や嫌悪や怒りを感じる。それが苦の正体に他ならない。
仏教でいう『四門出遊』も『苦諦』も本来はそうした苦の定義を含んでいたかもしれない。
そして人生を苦であると断じると同時に苦の正体を提示してはじめてその苦を越えようという希望がわくのではないだろうか?
では何をもって苦を越えるかというと人間が肉体を持ち、物質的世界で生きていると同時に、魂や霊に代表されるような非物質的存在であり、非物質的世界に関わって生きているということではないかと思う。
死んで魂になり、あの世に行くというだけでなく、人間がこの世に肉体として存在していると同時に非物質として存在しているということではないだろか。
だが、ここから先が最大の問題である
私の登録しているぶろぐ村というランキングサイトは現在50万近いサイトが登録されていて、様々なカテゴリーに分類されている。
<真言宗>というカテゴリには僅か3つのサイトが登録されているだけなのに(笑)、<スピリチュアル>というカテゴリ―には実に1200ものサイトが登録されている…
ところがこのスピリチュアル系のサイトを覗いてみると、以前と少しも変わらない風景がある。
それは水子の祟りであったり、先祖の悪しき因縁、幸運を得られるアイテム、魔よけの呪文…
肉体性や物質性の対照的存在として霊性とかスピリチュアリズムを挙げることは可能だが、今日、霊性とかスピリチュアリズムとして通用しているものの多くが恐怖からくるものであったり、より物質的幸福を得るためのものであることが多い。
恐怖というのは肉体をもつ生命に生じる最も根源的な、或いは原始的な感情に他ならない。物質的快楽の追求も快楽を求め、不快を避けるという肉体的本能に他ならない。
つまり霊性やスピリチュアルとして流布されているものの正体は物質性や肉体性の延長でしかないのではないか?ということなのである。
それらを越えたところに本当の安心や救いがあるのではないかということなのである。
安易にスピリチュアルなものを肯定する人も、安易に否定する人にも両方に問題があるように思う。
「魂の存在は科学的に証明されていません」などと自信たっぷりな人も多い。
そんなに簡単に言いきっていいのか…
その自信たっぷりな姿を見ていると或る種滑稽な気もする。
かなり前だがあるテレビ番組に出演した80歳になろうかというお坊さんが
「私は80年の生涯の間に一度も幽霊を見たことはありません。ですから幽霊や魂は存在しません!」
と語っているのを見てコケてしまった(笑)
そんなに簡単に言いきっていいのか…
この世ならぬものが見えたり、聞こえたり、奇跡というようなことが起きたり…
それが宗教やスピリチュアルであると思っている人も、それが全て非科学的だと思っている人も両方に違和感を覚えるのである。
一体、この違和感はいつ解消するのか…
私自身、その答えをずっと探している気がする。
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