ヒンドゥー 〜巨大なるバイブレーション〜

【山寺の密教入門】【山寺の本棚】

ここ数カ月、学研のエソテリカというシリーズにハマっている。エソテリカの第1冊は「密教の本」。「密教の本」はかなり評価が高いようである。
このシリーズは主に宗教をテーマにして豊富な写真、図版を駆使して膨大な知識をコンパクトにまとめた本である。

密教の本―驚くべき秘儀・修法の世界 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 1)

密教の本―驚くべき秘儀・修法の世界 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 1)


これまで10冊あまりのシリーズをブックオフオンラインで購入して、今回は「ヒンドゥーの本」を購入。
これが実に面白いのである…。これまでで最高の面白さかもしれない。

この本を読むと≪つながった≫という感覚が生まれる。

今までなんとなく感じていてモヤモヤしていたものが少し晴れたような、そんな感覚である。

私は密教の端っこにいて携わっているが、日本の密教がインドのヒンドゥーという巨大なバイブレーションにつながっているという感覚である。

ヒンドゥー教の本―インド神話が語る宇宙的覚醒への道 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 12号)

ヒンドゥー教の本―インド神話が語る宇宙的覚醒への道 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 12号)

インドでは供養(献供)はプージャーと呼ばれる。

プージャーはまず神を招くことから始まる。招いた神に座をさし出し、足を洗う水や口をすすぐ水を出す。次に花などを捧げた後に神を沐浴させる。すなわち、その神の像に水、ミルク、香水などをかけるのである。そして、衣を着せ、冠や首飾りをつけた後、果実などを食事として供える。このようにもてなした後、神が帰っていくのを花を投げて見送るのである。このようなプージャーは今日のインド、ネパールのヒンドゥー社会でももっともポピュラーなものだ。(「ヒンドゥーの本」p127)

一般の方にはどうということのない記述かもしれないがこのプージャーに関する一節は私にはとても面白かった。

真言宗で焚かれる護摩のプロセスというのは正に、神の座を作り、水を供し、供養祈願して、最後にまたお帰り頂くというもので、恐らくはインド起源の作法、<神様へのお接待>が日本に伝わり、一方、ヒンドゥー世界では今も脈々と生き続けているということなのである。護摩では花の代わりにシキミの葉を使っていたりして分かりにくいが正に花をもって供養し、最後に花で送る作法が通例である。

無数の尊格を祀り、現世利益を願う…密教は間違いなくヒンドゥーというバイブレーションの中にある。(曼荼羅や金剛杵のような法具さえヒンドゥーの中で用いられている。)
もっとも真言宗のお坊さんに「密教ってヒンドゥー教みたいですね」と言ったら多分、嫌な顔をされると思うが(笑)




ヒンドゥーの中には徹底した苦行や禁欲を肯定する思潮がある。

伝説の聖仙のアシュターヴァラクの苦行は6000年に及び、マールカンデーヤに至っては1億年の苦行を積んだとされている。

苦行1億年って…

現在でもインドに行くと、こうした苦行に専心する行者が数多くみられる。

お釈迦様と同時代に活躍したニガンタ・ナーラプッタはジャイナ教の祖である。
お釈迦様と同時代に活躍しただけでなく、王子という高貴な出地であることや禁欲、不殺生を説いた点でも仏教と共通性がある。
バラモン教を批判し、階級制度や供犠の獣を殺すことを否定した点でも共通している。

ナーラプッタは人間の身、口、意から生ずる微細な物質が霊魂を被ってしまうから輪廻の苦しみを味わうのだと考え、苦行による熱力によってその微細物質を落とす必要があると考えた。

身、口、意を浄化するというのは密教の考え方と全く一致している。

普通に仏教を学ぶと原始仏教から小乗、大乗という2つの流れが生まれ、大乗の後半に密教が出てくるような印象である。

言いかえると密教の中にヒンドゥー的な原形質があるということが大変分かりにくくなっている。このことは少し残念な気がする。



ヨーガでも古典ヨーガからハタヨーガへの流れは正に顕教密教という流れに合致している。

密教のベースはこのハタヨーガと同じであるが、ハタヨーガの中心であるクンダリーニの覚醒というテーマは普通に密教を学ぶ限り表面的には全くといっていいほど見えてこない
これは大変に不思議な気がする。

空海という偉大な人物がどこかでそれを隠されたのか、後世、何かの理由で失われてしまったのか…

空海という偉大な始祖の活躍を見れば正にクンダリーニの覚醒という印象に合致するのだが。

ヒンドゥーには禁欲や苦行を徹底する一方で、肉体や現世、そこから生じる快楽を徹底して肯定するという2つの流れがある。もちろん単なる快楽主義には留まらないのだが、それでもヒンドゥー寺院などのレリーフに裸の男女が交合している姿を見ると、日本人などはギョっとしてしまう。

徹底した現世の否定と肯定という2つの巨大な流れがあり、密教は正に後者の中から生まれた。

日本の密教釈尊原始仏教からあまりにかけ離れた印象があるが、ヒンドゥーという補助線を引くことでまた新しい世界が開けてくる。

私自身まだ密教という世界の門をくぐったばかりだが、これからどんな風景が見てくるかワクワクすることがある。
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