生乾きのコンクリートに思う

朝晩の冷え込みが身体にしみるようである。
今年の夏の暑さが夢のように感じられる。

夜、買い物帰りに車で走っていると丸々太ったアライグマが道路を横断した。危うく轢きそうになって肝を冷やした…


野生動物は危機に逢うと硬直したように動きが止まってしまうことがあって、車に轢かれる大きな原因になっている。今日出会ったアライグマはちゃんと道路を横断してくれたので轢かずに済んで幸いだった…


檀家さんの家に行ったら、コンクリート製のタタキの上に粋な梅の紋様が…と思ったら

…猫の足跡でした

生乾きのコンクリートの上をペットが歩いた足跡というのを時々見かけるが、それを見るたびに思い出すのは人間が人生で体験する心の傷となる経験である。


心に深く刻まれ、人生へのネガティブな感情を生む体験がある。
殺されかけた、レイプされた、プライドをずたずたにされた…といった深刻な経験である。
その一方で、子供の頃に親や友人に言われた、たった一言が忘れられない…といったことが往々にしてある。

客観的に深刻な人生苦が心に深く刻みこまれるのはよくわかるが、一見何気ない出来事がその人の心に深く、深く刻まれその人の人生を支配していくというのは一体どのような心のメカニズムなのだろうか。

あまり良い例えではないが、心は生乾きのコンクリートが除々に固まっいくようなものではないか…と思うことがある。

心が柔らかい時の傷というのは深く、永く長く刻まれ容易には回復しないということである。

だが、人間が心に傷を受けずに成長することなど不可能であろう。
また様々な人生苦を経ることで他人に優しくなれたり、自然や人生への達観が生まれることも事実である。

心に傷を受けてもそれを癒し、慰め、傷ついた心のままに受け入れてくれる何かがあればそれでいいのだろうか。

一番単純にはどっしりと、落ち着いていて、我が子を受け入れてくれる母親であろうか。

そう考えると母親の役割はとても大切な気がする。
逆に母親との関係性に失敗するといろんま面で人生のマイナスが生じるのもよく理解できる。

1歳3カ月になる娘が泣きやまないことがある。

私がいくらあやしても泣きやまないのに、母親にちょっと抱かれただけで至福の表情を浮かべることがある…

…この違いは何なのさ…

不肖の父親としては少々複雑である。
だが大きな母情に抱かれるというこの経験こそ娘の人生にとって安心感の原点なのだろうか…そう思って私も娘への思いを達観することにしている…
ブログランキ

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