お坊さんがホロリとした話

【本日の境内】
朝もやの中の千年ガヤ





いつもお世話になっている地元のご住職は毎朝、連続テレビドラマ「てっぱん」をご覧になっているそうである

先日、とても感じいったエピソードがあったといって話して下さった。

主人公の女の子が長年、使われていなかったお好み焼きのお店を改装して、新たに開業しようとする。最初に焼いたお好み焼をどこへ持って行くのかと思ったら、持って行ったのは自分の祖母の部屋である。てっきり自分の祖母に最初に焼いたお好み焼きを食べさせるのかと思っていたら、主人公はお好み焼きを部屋の仏壇にお供えして、リンを鳴らした。
仏壇には主人公の母親が祀られているのである。

ご住職は故人も今ある人達も供養ということを通してつながっていると改めて感じられたそうである。そして僧侶である自分たちが正に、人を供養し、つなげるということの仲立ちをしているのだ…そう思うとなぜか涙が出てきたとのこと。
もっとも主人公のリンの叩き方がちょっと変だったのでマイナス5点くらい減点とのこと…
本職のツッコミは厳しいのである…

先日、中古書店で買った桜井章一「負けない技術」をパラ読み。

サブタイトルが吠えてます。

20年間無敗、伝説の雀鬼の「逆境突破力」

言いたいことを全部言うタイプの人が考えたサブタイトルみたいです(笑)
桜井氏が素晴らしいと思うのは戦うことを通じて
「敵も味方である」という感性に達しておられることである。

武道にもそういう発想はあるが、その思想を体現して想像を絶する裏プロの世界で20年間無敗のまま引退するなどというのはやはり超絶というほかない。
「敵も味方である」というのは言いかえると

相手も自分の全てがつながっている

という感覚ではないかと思う。

別の個所に、身体が柔らかい人は体全体を使うことができるし、身体の一部ではなく、全部を動かすことで単なる足し算を超えた素晴らしい力になるという一節がある。

言いかえると身体の全てはつながり、協働するという感覚である。

部分でありながら全体。全体でありながら部分。

そしてこの2つはリンクしているのではないかという気がする。

しなやかで部分が協働するとような身体が敵も味方であるという感性を産み、敵も味方であるという感性が自己の身体に反映してまさにそのような身体になっていく。
この2つは不即不離なのではないかという気がする。

またブレない生き方という言葉があるが、身体の軸がブレやすい(ブレる)人とブレない人がいると思うが、ブレない身体性とブレないという生き方はどのように関連するのだろうか。こうした問題はなかなか興味深い。

供養ということを考えると生者だけでなく故人と生者またつながっていることになる。

そして日本人の感性には故人とつながり、自然とつながっているという感覚が脈々と受け継がれている気がするのである。
そうした感覚を喪失しつつある人間がネットというものにつながるという感覚を求めるのではないか…と感じるのはいつも妄想だろうか。

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