ノコギリ届きました 三密的日常
【薪を割ったら、中でカミキリムシがガシガシ食事中でした】
【完成した永代供養塔。宝篋印塔という形の石塔である。三重塔を遥拝する。】
午後から兼務寺院で春の法要があったが、読経する息が白く見えるほど気温が低かった。
今週は暖かくなりそうなので、伐採作業を本格的に開始する予定。
注文していたノコギリが宅急便で届いた。
高枝切り用と伐採用の2点。メーカーは神沢精工。
(アマゾンでも購入できるがメーカーサイトの直販のほうが少し安い)
薙刀型の高枝切りノコギリの商品名は“牛若丸”…
ここはツッコみどころだろう。
薙刀を武器にしたのは弁慶であって牛若丸ではない…と。
- 作者: 松長有慶
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1991/07/19
- メディア: 新書
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密教の基本は三密と呼ばれる。
「身密」「口密」「意密」の3つの行である。
印を結ぶ、真言を唱える、仏との一体化を観じることがその中心である。
基本といってもかなり高度な修練が必要である。
三密のうち真言を唱える口密は簡易であると同時に、口密に没入していくうちに仏との一体感が生まれることにもつながっていく。
3つの行が高度に相重する境地は大変に素晴らしいが、3つの行がなかなかひとつに纏まってゆかないのが現実である。
念誦を繰りながらひたすら真言を唱え続ける散念誦という行がある。
これなども行に没入すると、時々忘我に近い感覚を体験することがある。
平安期の密教の隆盛に続いて、専従念仏が拡大していく背景には口密の容易さと、容易でありながら高度な没我がもたらされることが大きな要因となったのだろう。
密教というベースの上に他力系の浄土宗や浄土真宗が生まれたと思っている。
宗教の目的のひとつは自我を滅することだと言っても過言ではないだろう。
行の過程で生まれる疲労や苦痛や快楽というのは自我意識を解体するというプロセスである。
自我意識の基本は<快を求める>、<不快を避ける>という極めて生物的、生理的なものである。
それは生物としての存在性に根ざしたものゆえに超えることは至難である。
仮にできたとしても自分が特殊なことをやっているとか、高度なことをやっているという自我意識はムクムクと湧き起ってくる。これはなかなかやっかいである。
従って日常茶飯の中で自己意識を解体できないだろうかといつも思う。
ただ人と話し、茶を飲み、掃除をする…
特別なことは何も無いが、その日常性の中で自我を減殺していくこと。
唯、淡々とした日常があって、そこで心が磨かれ、浄められてゆく。
そんな生活は…だいぶ先の話になりそうである
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