夢見る頃を過ぎても  松尾寺蔵「国宝・絵画」のなぞ 

2歳の娘が時々独り言を言うようになった。


今日、独り言に耳をそばだてると…


「…何の為に…生まれた」



みたいなことつぶやくので少しドキリとしたが、よく考えたら…


アンパンマンの主題歌の歌詞でした…


アンパンマンの主題歌は名曲で、聞いていると時々涙がこぼれそうになる)


少し前にふと思いついて、娘に


「あなたはどこからきたのですか?」


と尋ねてみたら、娘は


「あっちから!」


と彼方を指さした。


「どこへ行くのですか?」


と尋ねたら


「あっちへ!」


とまた彼方を指さす。


何だか禅問答みたいで楽しかった(笑)




午前中、法務2件。


法務が終わってから急に松尾寺に行きたくなった。


僧衣のまま松尾寺へ。


ひとつの用件は最近、先住職である松尾心空師の書かれた冊子を購入するため。
私の周りに歴史好きの方が多いので何冊か御配りする予定。


冊子のタイトルは『松尾寺蔵「国宝・絵画」のなぞ』(定価500円)


当地の歴史のキモというべき部分のひとつが平安時代、特に藤原時代であったらしい。
その時代の当地の歴史の中心にこの松尾寺があったのは間違いないだろう。



当地唯一の国宝である「延命普賢菩薩」が松尾寺に現存している。冊子には松尾寺の文化財院政期の複雑な人間模様が重ねあわされて描かれている。




兼務寺院にも平安時代普賢菩薩像(未指定)があり、どうも往時の普賢菩薩への信仰と関係があるらしい。



このテーマは当地の歴史を解明する大きな鍵を秘めているように思う。興味尽きせぬ問題である。



古代人と夢 (平凡社ライブラリー)

古代人と夢 (平凡社ライブラリー)



先日からヒマな時にパラ読みしているのが西郷信綱の「古代人と夢」。


本書も興味の尽きないテーマを含んでいる本である。


第2章は「長谷寺の夢」。


寺という存在は参籠して、泊まることで神仏をつながる場所だったのではないか。


単純に言うなら寺とは夢を見る場所であったのではないかということである…


古い仏事には夜を徹して為されたものが少なくない。


法要だけでなく、地域の宗教的行事でも夜を徹して行われるものが少なくなかったが、現在はいろんな理由で廃れつつある。


今では法事も法要も日曜日がいいということになりつつある…


仏教が七曜制という外来のものの上に乗っかってしまっているのが不思議といえば不思議。



夜とは神仏と繋がる時間だったのではないかということである。


もっと直截には魂が肉体を離れる時間だったというべきか。


最近は殆ど無くなったようだが、かっては松尾寺でも「お籠り」といってお寺に泊まるということが広くなされたようだ。


長谷寺は夢の霊験譚の多い寺院だが、古い観音信仰はこの夢の御利益と不可分である。



もう一つ気になっているのが、本書に観音信仰の場の特徴が岩と水の結びついた土地であるということである。


インドでは観音菩薩の居するのは補陀落山という山とされる。


補陀落山というのは八角形の不思議な山であり、またこの補陀落山の高い位置に水が湧いているとされる。


八角形というのは非常に特殊な形状だが、岩山や岩塊のようなものだったのかもしれない。


自然湧出の岩場が観音の聖地とされた場所としては同じ西国霊場石山寺が惹起される。


神道で重視された磐座(イワクラ)、或いは火(火山)の神聖性とも無縁ではないだろう。



そもそも松尾寺自体が境内に火山性の巨大な岩塊が見られる。



本日は杉山地区からの道路を経て松尾寺に行ったが、途中に名水の湧出している場所がある。


このことも興味深い。


青葉山は岩塊と清水という2つの条件を十分に満たしているのは間違いない。


徒然草―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP12))

徒然草―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP12))


徒然草仁和寺の僧が石清水八幡の参詣に失敗する有名な話があるが、


「石清水」というのはまさに<岩>×<水>の存在を示唆している。
(本来は石清水寺という行基開基の寺院であったらしい)



そんなことを考えながら門前の流木々亭にてシフォンケーキをコーヒーのセットを頂いた。


美味しいコーヒーとケーキも御本尊の御利益の賜物か…