法事では正座しなくてもいいですよ 


最近、何回か法事行ったお宅で小学4年生くらいの男の子がいつも最前列できちんと正座しているので感心した。



多分、武道をやっているのではないかと思って聞いたらやっぱり合気道をやっているとのこと。ちょっと嬉しくなった。



実際のところ、最近は正座をしない生活が主流である。


法事というのは仏様と故人に心を向けてもらう場である。


だから足が痛いとか足が痺れたといったことに心が向いていては折角の法事がもったいないと思うのである。



だから法事の前には必ず足を崩して頂いて結構ですということにしているが、たまに言い忘れることがある(笑)


先日も「足崩していいですよ」と言い忘れた…


法事の読経を終えたら後ろで話声が



「…お寺さんにお茶出して…私…足が痺れた…」


「…無理…私も立てないの」


という声が…



す、すまん…



【昨日夕方7時頃の空。深みのある綺麗な色をしていました】





法事とは何か…


参加者と仏と故人が一体になることではないかと思う。


僧侶というにはその仲立ちをする役割なのではないかと思っている。


お経を読むということには重要な意味があると思っている。



参加者の大半は故人と親しく、近しい人々である。


故人が生きた時間を共に生きた人達である。


そうした親しい人達が深い情の気持ちを抱くこともまた大切な供養であると思う。



供養というのは情と理とによってなされるものだと思う。


理だけに陥れば、人はいつか死を迎えるというのは必然である。


真言宗の法事や葬儀で重用される「理趣経」というお経があるが、「趣」とは赴くという意味であり、理にいたる道筋を示したお経である。




情の立場からすれば自分や親しい人が亡くなるのは愛惜極まりないことである。



しかし情だけの供養では終わりのない愛惜を紡ぐだけになってしまうのではないだろうか。


人が亡くなるという厳然とした事実への内省もないままに。





理だけでも情だけでもなく、この2つが共に渾然となり、昇華され、故人を慰めるのが法事ではないかと思う。そして参加者もまた何かを学ぶ場であると思う。


そうは言っても法事ひとつをとってもきちんと全うすることはなかなか難しいのである。


法事は読経することが主になるが、読経ひとつとっても難しく終わりのないことである。



棚経に行ったら、仏壇に飾ってある本尊の軸が激しく斜めになっていた。


両脇の御軸もなぜか斜めになっている。読経しながらふと「家人に直してもらうようにいうべきか」とちょっと考えた。


読経の最後に「南無大師遍照金剛」と唱えるのだが、「ナム…」と唱えるつもりが…


「ナナメ…」


といいかけててちょっと焦った。


「南無」と「斜め」が頭のなかで混線したらしい…



昨日、夜半から2時間ほど小雨が降る。


局地的な雨だったらしく兼務寺院の周辺や隣町では降っていないとのこと。
久しぶりに聞いた雨の音は心地よく、「甘露法雨」という観音経の一句を思い出した。





【オマケ】

量子の奇妙な振る舞い 。5分間の不思議な物語。

量子力学の世界は不思議と仏教の空の世界を連想させます。





最近、腹が立ったのが韓国選手の目に余るラフプレー。完全な暴力行為である。

日本のマスコミはなぜこういった事実を報道しないのだろうか。



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