お盆の微笑満面 お布施は西瓜の皮
午前中は棚経。
対向の難しい細い道で向こうから車がやって来たので停車して道を譲ったら、顔見知りの他宗の御住職だった。
わざわざ車の窓を開けて目礼して下さったが、満面の笑みの中に「御苦労さま!お互い大変ですね!」というメッセージをしっかり頂いた。
しばらくしてから、笑顔というのは言葉がなくてもいろんなことを伝えることができるのだなあと少し感心した。
棚経に行ったお宅に、逝去された先代さんの遺影が飾ってあった。
心からの快笑というべき善いお顔なので、いつ撮られたのですかと尋ねたら、娘さんの披露宴の時にものだと聞かされた納得した。
その流れでうっかり話し込んでしまい…気が付いたら30分以上たっていた。
お坊さん的には棚経で30分も話込むというのは立派な自爆行為…その後が結構大変だった。
夕刻は本日も庫裏の外で娘と西瓜タイム。
西瓜の皮を植木鉢の乾燥防止にと思って置いてみたら、沢山蟻が来るようになった。
お釈迦様の言葉に「蟻にパンくずをやるのも布施である」という言葉があったのを思いだして、西瓜の皮は蟻のいそうな草むらに撒くことにした。
- 作者: 現代語仏教聖典編纂委員会,里見達雄,冨士玄峰,田村展子
- 出版社/メーカー: 全日本仏教青年会
- 発売日: 2012/05/01
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世にはよく『私には他(ひと)に施す財(もの)がない』という者がある。然し、それはその人に財がないのではなく、真実(まごころ)がないのである。どんな貧乏人であっても、少々のパンくず位は持っているであろう。それを蟻に施すのも立派な布施である。またどんなに暮らしに困っている人でも、まさか裸ではあるまい。自分の衣の糸を一本抜いて、他のほころびを繕うのも、また大いなる施しである。パジャパーティーよ、またまことに一物もなく、身一つであるならば、その身をもって、他(ほか)の奉仕をたすけるがよい。それもできぬ身体であったなら、ただ他がよい施与をするのを見て、よろこびの心を起こせ。それだけでも、その人は大いなる功徳を得るであろう。
キリスト教と仏教を比較するとキリスト教は慈善のような社会的活動がさかんであるし、仏教は自己完成を目指す傾向がある。
ただその仏教のなかでもさらに自分完成に向かうという方向性(小乗仏教)と、他者の救済という社会的な方向性(大乗仏教)がある。
小乗仏教の基本的修行は八正道という8つの修身の方法論であるのに対して、大乗仏教では六波羅蜜という6つの修行が基本となる。※
布施は六波羅蜜の最初の修行である。
布施という他を助け、扶助するという行為が大乗仏教の基本精神につながるからであろう。
ただ、お釈迦様の言葉をよく読むと、施すということは慈悲という仏教の核心にいたるためのものとらえることができる。
施すということは慈悲という深い心に至る第一歩でもあるのだろう。
※ 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6つが六波羅蜜である
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