施餓鬼にツッコむなかれ

今年の夏は夜も気温が下がらない。


このことは少し不思議な気がする。


いつもなら日中、どんなに暑くても、夜半や明け方は身震いするほど気温が下がることが多いのに、一晩中蒸し暑い。




本日は法務2件。



何人かのお坊さんにお逢いしたらお盆明けで皆さん虚脱状態…



例えて言うなら…



「産卵を終えた鮭」か…



だが、お盆を終えてもそれぞれのお寺ではいろんな行事や法務があるので本当に大変なお坊さんがまだまだ居られるのである。




目連は釈尊の高弟である。



1000人を優に超した釈尊の弟子の中でも最上位の弟子の1人であった。



目連は神通力に秀でていたが、ある日、亡くなった自分の母親があの世で苦しみに喘いでいる姿を知る。


食べ物や水も火のように燃え上がって口にすることができず飢渇に喘いでいた。



釈尊に相談すると、施餓鬼の秘法を教示され、それに従うとたちまち母親の魂は救われた…




これは「盂蘭盆経」という経典による施餓鬼の説明である。



だが、この「盂蘭盆経」は中国で創作されたものと考えられる。


母親を助ける…というのも明らかに中国の孝行の考え方が反映しているように感じられる。



釈尊の高弟ならその法力は大変なものであるはずで、餓鬼道に落ちた自分の肉親くらいは簡単に救えないのはおかしい…というのは最大のツッコミどころだろう(笑)



ではこの施餓鬼という行事を軽んじていいかというとやはり大変に大事な意味を持っていると思うのである。



典拠となった経典が創作であっても、そこで為されている供養は大変重要である。


施餓鬼は供養を受けられていない魂を救済するという大変重要な供養である。


自分の祖先だけでなく「三世十方」というあらゆる存在を供養するという考えである。


そしてその功徳が自分や祖先、子孫に返ってくる。


私はこの施餓鬼の功徳というものを信じているので、いろんな人にできるだけ施餓鬼に参加するように勧めている。


施餓鬼の供養というとしきみの葉を水に浸して水向けをしたり、お供えの野菜やお団子をお供えする。


水向けをするのは食べ物が燃え上がって飢渇にあえいでいる人達のために、火を消して、口に入れさせることを現しているとされる。




施餓鬼の作法にはいろんなパターンがあるが、例えば餓鬼界の亡者を集めることからはじめるものもある。


「雲集する」(雲のように群れ集まる)と某テキストにあるから大変な数である。
迷える数多の魂を呼び寄せ、加持によって供えられた供物を特別なものにし、呼び寄せた数多の亡者に施す。


キリストの奇跡で僅かなパンが大群衆のすべてに行き渡ったという有名な逸話があるが、そんなイメージであろうか。


参加者は何気なく水を向け、供物を捧げているようだが、実は呼び集めた、数多の餓鬼の飢渇を救っているのである。



ビジュアル的に想像するとかなりダイナミックな法要なのである。




魂の限りない向上を目指すのが仏教である。


地獄、餓鬼、畜生、というのは最下層の世界である。


これは暴力や飲食や性欲といった動物的欲求の支配された世界と考えられなくもない。


もう少し言葉を変えると飲食や性欲や暴力といった肉体的欲求に生きるということは魂を曇らせるということに他ならない。



最近のテレビや雑誌に氾濫している暴力やグルメや性欲に心惹かれないようにしたい。
あれは餓鬼の世界そのものだと感じる。


そして人を救うということを心がけていれば必ずに自分にも何らかの救いがもたらされる。


お盆の一行事としか考えられていない施餓鬼だが、大変に深い意味があるのである。




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