人生は蜃気楼

 


【ジャギ様、悪カッコイイ!】


時々、「北斗の拳」の主題歌である「愛を取り戻せ!」を聴いている。大好きな歌である。





或る時、同じクリスタルキングの「大都会」を聴いて、田中雅之氏の高音の素晴らしさに改めて感じ入った。



ところが最近の、田中氏の活動を調べてみたら氏はクリスタルキングを脱退していた。



何よりショックだったのは(ネット上に書かれたいたことを信じるなら)田中氏は草野球に参加していた時にボールが喉を直撃し、あの素晴らしい高音が失われてしまったということである。



長い間下積みに耐えた者がスターダムに駆けあがったり、かっては栄光の座にあった人物がいつの間にか凋落してゆく。


芸能とは何とも不思議で魅力的で、そして残酷な世界である。
それを知っても尚、大勢の人々が芸能という世界に身を投じる。


芸能に生きる人生の光と翳の交錯を見るにつけ、人生そのものが蜃気楼のように観じられる。






田中氏のように長い苦労の果てに栄光を極め、一転して深い悲哀の淵に立たされる。


そのことを仏教の立場からどのように説明すればいいのだろうか…少し考えてみたが良い答えが浮かばない。



諸行無常とは平家物語の冒頭のように哀感を以って語られるべきものではない。



“無”のように見えたものから限りない “有”の生まれることもまた諸行無常の理だからである。



理の世界観で人生を割り切ることは簡単である。しかし、個人の生き様を粒さに見た時に、ただ理をもって割り切れない何かを感じるにも事実である。



悲しむ者に理を説くのではなく、一緒に悲しむというのが多分、仏教には叶っているのではないだろうか。


では、もう理は不要なのだろうかと問われると、やはりもう一度、どこかでその生に理の在るべき姿をみることが必要にあるはずだ。


それはいつなのか、どのようなことなのか…そう考え始めると、いつも撞着に陥ってしまう。


今の私には田中雅之という素晴らしい資質を持った人物が今後も音楽の道を歩まれることを祈念するしかない。




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