ATUSHI「CHANGE THE WORLD」 無常について
YoutubeでEXILEのATUSHIのソロコンサートの動画を見たら、とても歌が上手かったので妻に「ATUSHIって歌がうまいねえ」と言ったら「今頃何いってるの?」と不思議そうな顔をされた…
私の知っている某有名寺院の御住職も娘さんと一緒にEXILEのコンサートに行かれるとか。
当方は取り合えず…
頭だけATUSHIに酷似しています。
仏教伝道協会から頂いた「みちしるべ 正見」という冊子を傍に置いて時々読んでいる
著者である青山俊薫師は大変立派な方であると、最近お逢いした曹洞宗の御住職に伺った。
こんな1節がある。
「無常」という言葉からは、とにかく否定的なさびしくかなしい情景を想定しがちであるが、そうではない。
無常だから子供も成長するのであり、無常だから老い、死してもゆくのある。
無常だから病気にもなれば、無常だから快復することもできるのである。
無常だから努力すれば成績もあがるかわりに、怠れば落第もする。
無常だから愛が憎しみに変貌することもあるが、憎しみを愛に変えることもできるのである。
無常だから失敗を逆手にとって人生を建てなおしてゆくこともできるのである。
子供を成長させる力と老い死なせる力は同じ働きであり、無常とは悲しいこと、忌み嫌うことではなく、一刻も止まることなく働きつづけている働きそのものということができよう。
冬が来て木の葉を散らすことができるのは、木が生き生きと活動している証であり、枯れてしまった木は、枯れ葉を落とす力さえなく、いつまでもつけたままでいる。水も一刻も止まらず流れているからこそ腐らないように、無常ということは、常に生き生きとした活動体であるということである
無常とは休みなく働きつづけている天地の姿であり、人の生命の姿であり、であればこそ再び訪れることのない今日只今に命をかけようという、一期一会の心も生まれるというものであろう。
平家物語と言えば、冒頭に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という冒頭が有名だが、平家の没落を盛者必衰の諸行無常とするなら、平家の勃興もまた諸行無常の力なのだといえるだろう。
多分、日本人は陽気な明るさよりも、少し陰性の哀感のほうに惹かれるのだろう。
したがって無常の力の半分しか見ていないのかもしれない。
西欧的な思考では<世界を変える>ことがスタンダードだが東洋では<世界は変わり続ける>。この感性の違いはやはり面白い。
日本人の感性にはもちろん<世界は変わり続ける>というほうがしっくりくる。
真実を見る眼で見た時に、世界はどのように映るのだろうか。
我々凡夫の想像する以上に、信じられない速度で世界は変異しつづけているのだろうか。ただ凡夫の眼にこそ「いつもと変わらぬ世界」と映じるのかもしれない。
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