全粒粉 鏡餅幻想 ポケットの中の戦争

 


パナソニックのホームベーカリーが好調。


自家製のパンは家族にも評判が良い。


慣れれば5分で材料がセットできるので、やはり手軽にパンが焼けるというのは良い。パン代が大幅に節約できるわけではないが、添加物が殆ど無いというのはポイントが高い。


最近は小麦粉の2、3割を全粒粉に替えて混ぜているが、なぜか全粒粉は精白した小麦より値段が高いというのが解せない。地元のスーパーだとパン用強力粉の倍近い価格なのである。思いついて密林を調べたら、少し安いものが見つかったので取り寄せることにした。



わが家のホームベーカリーは当分活躍してくれそうである。
ホームベーカリーは餅も作ることができるようなので近々挑戦してみるつもりである。


蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)



正月に本尊の前に置かれた鏡餅を見て想い出したことがある


20歳頃読んだ、吉野裕子さんの書かれた民俗学の本である。



タイトルは失念したが多分、講談社現代新書ではなかったかと思う。


古代の日本人の深層には蛇に対する信仰があって、それが現在の日本文化に様々な痕跡として残っているとするのである。


蛇は「カカ」「ハハ」「カガチ」「カガシ」などと呼ばれた。
(そういえば「ヤマカガシ」という蛇の名称もある)


鏡とは「カカ」の眼(「カガメ」)であり、鏡餅は蛇の眼であると同時に蛇がとぐろを巻いた姿である。注連縄(しめなわ)は絡み合う蛇の姿である。神とは蛇(カ)の身(ミ)である…そう言った視線で見ると、清浄で明るい正月の風景がまた違って見える気がした。


吉野氏の著書は文章が“走って”いて、正直言って根拠に乏しいという印象を受けた。
(実際、吉野氏の説に異論を唱える向きも多いそうである。)


ただ白川静氏らが漢字文化について書かれた著書を読むと記号としての漢字の背後に
古代の人々の祈りや願い、信仰や恐怖といった生々しい感情にであう。


現代人が情報を伝える符合として言葉を使っているに比べると古代人の言葉は力があり、生きていたのだろう。言霊という言葉があるように不思議な力が備わっていた。


文化の古層には現代人の感覚からは超絶した深い、暗い世界があったような気がする。


多分、吉野氏の方向性のようなものはもう少し評価しても良いような気がすると今になって思うようになった。


ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫)

ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫)


昨日、スピルバーグ監督の「ザ・パシフィック」を見終えた。


「プラベート・ライアン」「バンド・オブ・ブラザーズ」に連なる戦記ものだが、やはり日本人が殺されることには抵抗を禁じ得ない。


(戦闘の映像については「プライベート・ライアン」の冒頭30分間にわたってのノルマンディー上陸の映像が一番素晴らしかった。)


「ザ・パシフィック」を見るのと並行して原作の「ペリリュー・沖縄戦記」や「ペリリュー島戦記」などを読んでいたので、戦闘の様相に少し違和感があった。


3部作を見ると結局、スピルバーグは戦争そのものを描きたいのであるということが良く分かる


3部作の末尾ではそれぞれ戦争への反省や批判めいた言辞があるが、多分それはスピルバーグのちょっとしたエクスキューズでしかない(笑)


人を人が殺し合うという人間の野蛮性、獣性にやはりスピルバーグは惹かれるし、視聴者もそれを映像という娯楽によって享受することを望んでいるのだろう。


ハラスの「沖縄シュガーローフの戦い」は局地的な戦闘が冗長に描かれているが、「ペリリュー島戦記」は作戦全体の推移、戦局のなかでの位置付け、個々の戦闘の様子などなどが実に巧みに織り込まれている。


500ページを超える著書なので文庫本とはいえ、ポケットの中に入れるにはやや手強いが、作品としての完成度は極めて高い。


Dプラス2、上陸3日目である九月十七日の朝までに、海兵隊は、ペリリュー島での戦闘が、これまで日本軍を打ち破って来た、他の太平洋諸島とは、全く異なるものであることに気がつき始めていた。最も異なる特徴は、作戦初日に、日本軍の盲目的なバンザイ突撃が姿を消した点にあった。海兵隊員たちは圧倒的な火力を駆使して、短時間で日本兵を大量虐殺することに望みを繋いでいたが、その気配は全くなかったのである。
日本軍の反撃は、単に攻撃の機会が恵まれていたわけではなく、よく練られた作戦と、巧妙な防御陣地に基づくものであった。この島の日本軍守備隊について、後年の専門家は「これまで戦場で出会った中では、最も優秀と思える兵士で、率いる将校も、敵の圧倒的な火力の前で無駄死にすることの無意味さを理解し、米軍の術中にはまらない決意に満ちていた」と語っている。
 海兵隊にとって、ペリリュー島で遭遇した、緻密に計算された堅牢な縦深陣地群、自らの兵力を温存しつつ、米軍側に最大限の出血を強いる日本軍の守備隊は、いわば、硫黄島や沖縄の前兆であった。

(「ペリリュー島戦記」第7章冒頭より)


戦争末期になった日本軍は大きな転換を果たした。


緒戦で米軍の圧倒的火力に向かって突撃を敢行するという短期消耗戦の愚を脱し、長期の徹底抗戦に切り替えたのである。



それは戦国時代の籠城戦を彷彿とさせるような戦いであった。



ペリリュー、硫黄島、沖縄という一連の戦闘はそれ自体が巨大な縦深陣地として米軍に莫大な消耗を強いたのだということが良く分かる。



日本人にとって戦争は余りに遠い存在となってしまった。


それでいて日本は正に自国の領土を占拠され、脅かされつつあるのが現状である。



戦争が遠いという感覚は錯覚でしかないのかもしれない。
戦争は実はポケットのなかあっていつ暴発するかも分からないのに虚構の平和の中にいるだけなのかもしれない。



故郷を遠く離れて異国で亡くなった多くの方々は今の日本をどう思われるだろうか。
戦争について描かれた作品に触れる度にいつもそのことが頭をよぎる。




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