そそっかしい話 やがて悲しき 


そそっかしい性格でよく物を失くす。



数日前も軽自動車のタイヤを交換しようとしたら冬の間ガレージにしまっておいたはずのノーマルタイヤが見当たらない。



ガレージ以外にタイヤをしまうはずはないのだが無い。どこを探してもない。




さてどうしたものか…



もっと大切なものを失くす?こともある。



ある日、檀家さんから預かって、仏壇に置いてあった檀家さんの家の過去帳が無いことに気がついた。



何カ月も前に過去帳の書き直しを頼まれていたのだが、毛筆で過去帳を清書するというのは骨の折れる作業なので億劫になってそのままにしていたのだ。




いくら探しても無い…



唯一可能性があるとしたら、他の古いお札などと一緒にお焚きあげしてしまったとしか考えられない。



もしかしたら老僧が私の知らない間にお焚きあげしてしまったのか…これは大いにあり得る。どちらにせよ後の祭りである。




お寺には基本の台帳にあたるものがある。そこには全ての檀家さんの御先祖様の亡くなった年月日と戒名を記してあるので、そこからその檀家さんのお宅の分だけを拾いだして過去帳を作るしかない。




考えただけで気の遠くなる作業である。




だが他に仕様も無い…仕方なく、正装して御詫びに行った。




檀家さんに過去帳のことを話していていたら何か話が噛みあわない…



しまいに檀家さんが「過去帳は家にあります」と言われる。



どうやら私は過去帳の書き直しを頼まれたのにお寺に持って帰ってくるのを忘れたらしい。



何カ月も放置している間に家に持って帰ったという記憶違いをしていたらしい。




やれやれ…



【教訓】やるべきことはさっさと済ませましょう。先延ばしにするほどその用件は難しくなります。




本日は兼務寺院の多禰寺に団体参拝があるので法話に出かけた。



車で山道を走っていると雪が舞い始めた。相変わらず余寒が厳しい。



本堂の中で準備をして待っていると一団の来られる気配。



誰かが頻り何かを説明している。お参りに来ている方が蘊蓄傾けているのか…



住職が居るっつーのに蘊蓄とはいい根性じゃねーかっ!



…と顔を見ようと本堂の扉を開けると、改良服を着た御住職らしい人が立っていた…




そんなの聞いてないよ!




御住職の引率される団体となるとこちらもいい加減な応対はできない。




そうと知っていたら改良服くらい着てきたが、寒いのでユニクロのフリースの上下に作務衣をはおっただけである。



正装の御住職を迎えるにはいささか礼儀を欠いた格好である。



本堂で簡単に法話して、御住職に御挨拶したら同じ西国薬師霊場のさる札所の御住職だと判明。



関東から来られた団体のお参りの方々に先達として同行されていたことが判明。



どうりでどこかでお見かけした顔だと思った。






多禰寺からの帰途、山道を走っていると、道路脇で茶色い塊がもそもそ動いていた。



イノシシだった。車を止めてよく見ると、木の枝がY字状になったところに前脚を挟まれている。Y字だから簡単に抜けそうなものだが、必死に振りほどこうとして身もだえしても抜けない。鬱血しているのか挟まれた脚の付け根が真っ赤になっていた。



前脚の挟まっている枝は直径1センチほど。どうにかすれば外せないことはない。



しかしイノシシがそのまま大人しくしているとも思えない。



手を近付けたとたんガブリと噛まれたら指くらいなくなるし、体当たりされればふっとんでしまう。



暫し考えた末、断念して山の麓まできたところでひどく気分がもやもやする…






そのうち山寺に長い柄のついたノコギリがあるのを思い出した。



柄付きのノコギリなら少し離れた所から枝が切れる…



イノシシには畑や花木を散々荒らされて恨み積年ではあるが、Y字の枝に脚をとられるというおマヌケさにはなんとなく同情を禁じ得ないのである。同類相哀れむというべきか。



山寺に引き返してノコギリを調達して現場に戻る。





まずは記念に1枚写真を撮ってからいよいよノコギリを持って近づくと、必死で暴れるイノシシ。



構わず近づくと、脚元にワイヤーとプラスチックの部品が見えた…



路肩より少し高い位置にイノシシが居たので見えなかったのだが、イノシシは罠に前脚を取られていたのだった。



Y字の枝は罠を偽装していたらしい。



暫く考えたが猟師さんの罠を解いてまで逃がすことはできないという結論に達した。




少々憂鬱な気分で帰路についた。




時々、動物を取り上げた番組を見る。



大抵「可愛い動物の赤ちゃん」というのが良く出てくる。確かに可愛い。



だが動物が野生で生きるというのは本当に苛酷である。



罠に落ち、猟銃に撃たれ、冬になれば餌を探してさまよう。寒さや餓えで衰弱して死ぬことは日常茶飯事もある。ケガでもすればたちまち餌をとれなくなる。そして天敵に見つかれば餌となり、多くは生きたまま食べられる。



飼育された家畜は大切にされるが大きくなれば人間に命を奪われ、人間の食材となる。







人間は動物を殺さずには生きていけない。




動物を殺して食べることを是認している人間が動物を可愛いとか可哀そうというのは少々矛盾しているのではないだろうか。



正確には矛盾していいのだと思うのだが、もう少し矛盾に気がついてほしいと思うのである。





動物の赤ちゃんを抱えて満面に喜びをたたえていたタレントがグルメ番組では大きなステーキに舌鼓を打って絶賛している。
これはどこか矛盾していないかということである。







野生で生きるということの苛酷さを、人間の業としての矛盾というものを時にはマスメディアが取り上げられてほしい。詮無い願いかもしれないが。



動物に対して可愛いとか可哀そうという情緒だけが延々と続くと時々白々とした気持ちになってしまう。



芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)



芭蕉の句に「おもしろうてやがて悲しき鵜飼かな」というのがある。



芭蕉の悲しさというのは鵜飼の一団が海上から去った後の空虚さ、寂しさなのだと何かに書いてあって少しびっくりした。




私は全く違った解釈をしていたのである。鵜飼を見ていると鵜が魚を捕る様子が面白いが、よくみれば鵜が綱に首を繋がれ、口から餌を吐きださされる姿がなんとも悲しいという意味だと思っていたのだ。




もちろん芭蕉がどのように鵜飼をみたか知る由も無い。




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