死よ驕るなかれ 「言葉で治療する」

『花日記』


桜散る。兼務寺院の八重桜満開。


コブシ散る。モクレン残り僅か。


水仙散り始め。


ミツバツツジ満開。もみじの花咲く。


タンポポ、スミレ盛り。








この数カ月に何人も重篤な病と闘っておられる方とお話する機会があった。



出逢いはいずれも偶然である。



待ち合わせ場所のベンチの隣に座られた方であったり、



札所巡礼で御朱印を求められた方、



御縁あって親族の方の御供養をさせて頂いた方。



何気ないお話しているなかで、病気の話題になった。



ある方はひどくあっけらかんと「私、末期ですねん」と言われた。




面立ちは少し痩せておられるがいたってお元気そうである。
化学療法を断られ、痛みのコントロールだけされているという



その方の元気さに引き入れられるようにいつの間にか話込んでいた。




その時間はとても永い時間だったようにも感じるし、とても短い時間でもあったように感じた。



ただお話を聞いて、時々合槌を打ち、ごく手短に自分の考えや体験を述べた。



その方ともしかしたらもうお出合いすることも無いかもしれない…



そう思うと何気ない言葉や時間がとても貴重に思えた。



重篤な病といってもその症状も経過も治療法も違う
家族との関係、その方の生きてきたプロセスも、病気に対する感情も、心の葛藤と希望も。




皆それぞれがそれぞれの命を生きている



重篤な病と闘う…というとひとくくりにされがちだが誰1人として同じ条件ではないのである。



言葉で治療する

言葉で治療する




鎌田實「言葉で治療する」という本を読んでいる。



タイトルから予想されるのは相手を癒してあげる言葉の掛け方といった内容だが、
本書の約半分は医療の現場で患者さんが傷つけられたことへの痛烈な告発である。



そして残り半分が医師の言葉や態度や誠意によって癒された体験である。



どのエピソードもとても重いのである。





自分の大切な家族に残酷な、不思慮な言葉が投げつけられたどうするだろうか。




私がひとつ不思議なのは、こうした場面で怒りをもって医師に抗議したということが殆ど書かれていないことである。




重い病に苦しむ患者にはできなくても、隣にいる家族にはできるのではないだろうか。



明け方眼が覚めてそんなことを考えたら眠れなくなった。




もし家族にそんな言葉や態度でやっぱり怒るだろう。


「先生は無神経ですね」


「とても傷ついているということがおわかりですか」


「先生は医療の専門家ですが、もっと患者の立場にたって考え、話をされたらどうですか」



…こんなところから始まって最後は怒涛のエゲつない言葉を投げつけるに違いない。





私は決して強い人間ではないが、家族が傷つけられたら多分そうするだろう。




もしそうできなくても何かの自分の意思を伝える方法はあるはずである。



もっと冷静な淡々とした言葉でもいい。



手紙でもいい。


あるいはその病院を去ることでもいい。



それはできるはずだ、その意味で日本人はとても我慢強い。




私は我慢のできない落ちこぼれなのかもしれない。





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