法事雑感 仏様の体温

   



本日より五月に入る。



連休のせいか参拝多し。



午後から雨の為、来訪絶える。




あちこちの田んぼで水が張られ始めている。



本来なら田植えはもう少し遅くても良いのだが、五月の連休で都会に出ている子供達に帰省してもらって田植えをしようという農家が多いと聞く。



働き手の不足はなかなか深刻なのである。



1週間ほど前に植木市で買った花木を植えようと庭園に穴を掘っていた。



途中電話が入ったので手を休めて、再び堀かけの穴の底を見ると泥だらけのカエルがじっとしていたのでちょっとびっくりした。


どうやら私が冬眠しているカエルの真上か真横を掘ったのでカエルが驚いて出てきたらしい。まだ冬眠モードらしくじっとしていたのが印象的だった。



そしていつの間にか夜になると夜のしじまを無数のカエルの鳴く声が埋めている。





法事の余韻がまだ続ていている…




幼い頃一緒に遊んだ従兄弟たちがそれぞれ大人になり、家族を持っていることも感無量だった。





法事の行われた大広間は100畳近くあって、小さな子供達は喜んで走り回っていた。




もっとも元気の良かった1人がウチの…



自分も子供の頃、こんな体験を何度かした…と懐かしく想い出した。



老僧が法事をすると言いだした時は正直、面倒なことを…と感じたものだが、こうして法事を終えると人と人とのつながり、血縁のつながりを改めて感じた。




これから日本は人口減少へと向かってゆくことは間違いない。



人と人とのつながりや情愛も希薄になって行くかもしれない。



それでもこんな法事が続いてゆくのだろうか。




【舞台では手品。子供達が乱入して大混乱へ…】


翌日、遠方から来訪してくれた親戚を松尾寺に案内した。



松尾寺という寺名の刻まれた石碑の前で松尾寺について説明した。



松尾というのは「松の生えていた場所」くらいの意味だと解している。



(杉尾という地名もあるがこれもやはり杉の生えていたところを意味するのだろう。)



松尾寺の由緒は唐から渡来された威光上人が青葉山の松の大樹のもとに馬頭観音を感得したことに始まるとされる。



仕事柄、仏像を間近に見ることが多いが、木の仏像というのはどこか温もりを感じるものである。



仏様の体温のようなものか。そして作り手である仏師自身の体温をも感じる。



最近、時々感じ、思うのは、古の人々にとって樹が聖性を持っていたということである。



樹木で仏像を作るという時、樹木は単なるマテリアルなのか、
それとも樹木の聖性を顕現することが仏像の目的だったのか…



お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開かれた。



このことは古代のインドで樹木が聖なるものであったことと無縁ではないだろう。



神社の境内で直立する杉の古木を見ると、天を突くような屹立する姿に圧倒されることがある。



往古に日本には眼もくらむような巨木や古木が横溢していたに違いなし、
その景観も、恐らく日本人の宗教的意識に大きな影響を与えたに違いない。



日本の宗教には豊穣な日本の風土が反映されている。



これから社会や自然の大きく変化するなかで日本人がどのような宗教的感性を持ち得るのだろうか、そしてこの日本の豊かな国土をどのように守っていけばよいのだろうか。


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