住職の危険な不注意 この世は苦の世界?

 



今月の「寺門興隆」を読んでいたら、「境内用の保険」についての特集があった。



境内の樹木が折れて参拝者が怪我をした(補償対象)


住職の飼い犬が参拝者を噛んだ(補償対象外)


お寺の手すりが破損して参拝者が怪我をした(補償対象)


いろいろ想定が書かれているのですが…




護摩行の火で火傷した』


『寺院で販売したお守りに針が混入していて購入者が怪我をした』



そんなことありえますかね?(苦笑&疑問)


極めつけは…


『住職の不注意で木魚の撥が後方に飛んで参拝者の眼に刺さってしまった』



こ、怖い…てゆうか…

絶対あり得ん!!





細かいこというと…


木魚を叩くのは撥(ばち)ではなく撞木(しゅもく)とか棓(ばい)と呼ぶ場合もある。












寿命というのは生まれた時から決まっているというのが私の考えである。


もちろん“その時”がいつやってくるかは分らない。


3ヵ月後、3年後、30年後、…あるいは3分後



生には終りがあり、その終りが示されていない。



仏教的にはこの世は苦の世界であるとされる。



仏教の規定する4つの(最大の)苦とは



生 老 病 死



である。


最近、少し病気について考えていて、



結局、病気のかなりの部分は老化なのではないかと思い至った。



老いと病むことを連続して捉える仏教の考えた方はやはり正しいのではないかと。



私達がこの世の愉しみを謳歌していてもすぐに老いはやってくる。


老い→病→死



死というゴールはすぐである。




お釈迦様は80歳前後で亡くなったとされるが古代インドの平均的寿命からすればかなりの長寿であったにちがない。


ちなみに戦前の日本では男女共に平均寿命は50歳以下!である。


そう考えれば私達より遥かに切実に死というもに直面せざるを得なかっただろう。







そもそも…


お釈迦様が説かれた「四苦」における“苦としての生”というのは“生きる苦”ではなく“生まれる苦”であった。


つまり…


《この世に生まれることそのものが苦である》


というのが仏教をはじめとする古代インドの(宗教的)価値観だったわけである。


(一方ではインドにはこの世を快楽的、現世的に肯定する思潮も存在した)


端的にはこの世を仏教では「忍土」とか「忍界」と表現する。


この世は忍ぶべき世界である。


その中でも最大の苦は何かというと“死”である。


長くなりそうな気配なので続きはまた明日に…




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