餓鬼のいたずら秋の風
毎年のことですが、棚経で炎暑の中を歩いているときにふと秋を感じることがあります。
空の色、雲の気配、風の涼やかさ…
特に風の中になんともいえない秋の気配を感じることがあります。
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行
こんな歌がぴったりくる気がします。
お盆について調べたらら「餓鬼の首」という言葉が見つかりました。
餓鬼の首とは8月16日を指します。
この日は地獄の釜の蓋が開くとされ餓鬼が自由になる日とされます。
そしてこの日は閻魔様の縁日とされています。(暦の関係で7月16日ともされる)
昨日、お盆疲れの中、餓鬼について延々とブログのネタを綴っていたのですが、パソコンの中に残っていません。
餓鬼のいたずらでしょうかね。
最近、面白いエピソードを知りました。
臨済宗十四派の祖である白隠禅師は500年に1人ともいわれる傑僧である。
と謳われた。「原」とは原宿のこと。現在の沼津市市原である。
白隠さんの許にある日1人の若い侍が訪れ「地獄極楽とはあるものなのでしょうか?」問うた。すると白隠さんは「侍のくせにそんなことも分からんのか」と言い捨てた。
激高した侍は刀の柄に手をかけ斬りかからんばかりになる。白隠さんはその侍に向かって「それが地獄である」と言った。その侍も見識のある人物であったらしく、その言葉に我に返り非礼を詫びた。
すると白隠さんは「それこそが極楽ですよ」と言われたそうである。
悪しき行為、悪しき思いを為したものが死後、悪しき世界に往き
善き行為、善き思いに生きたものが死後善き世界に往くということを私は信じています。
その意味では地獄極楽はあると思うのである。
それと同時に、この地獄極楽はその人間の思いの反映した世界でもあると感じている。
人間はまさに自己の思いのままの世界に自己を送るのである。
地獄極楽以外にも死後には様々な世界があるとされる。
そのひとつが餓鬼の世界である。
餓鬼の世界に陥ると激しい飢えと渇きに苛まれるが、飲みもの食べ物を口にしようとすると火焔に包まれて口に入らないとされる。
お盆の施餓鬼法要とはそうした餓鬼の世界に対して施しを為す。
法要の中で捧げられる飲食物は施餓鬼法要の法力によって莫大な量の飲食として餓鬼の世界に届けられる。
砂漠の中で渇きにあえいでいるときに1杯の水が与えられればどれほど有難いことだろうか。
たった一杯の水であっても相手によっては大きな積徳積善となるのである。
ましてや無限の飢渇にあえぐ餓鬼に飲食を施すことの積徳は甚大なものがある。
施餓鬼では先祖供養や初盆供養がされるが、その大いなる功徳を先祖や故人に分かち与えることが目的である。
生前、強欲な生き方をした人間が餓鬼の世界に陥るとされる。
地獄極楽がそうであるようにそうした世界の実在すると同時に、この世の私達の心の在り方が決定しているのではないかという気がする。
ところで地獄、極楽、閻魔、餓鬼…
いずれも強烈にビジュアルをかきたてる存在である。
施餓鬼法要で餓鬼の話をしながら、話だけでは少し説得力にかけるな…と思わずには居られなかった。
全国の多くの寺院に地獄を描いた絵画が残されている。
かってはこの絵図を題材に地獄極楽について法話が為されたものであろう。
あらたに地獄絵図を作るというのはお金も時間もかることだが、現代の寺院もビジュアルに訴えて来世を説くということの必要性をもう少し考えたほうが良いのかもしれない。
地獄絵の飯は火を噴き盆の寺 長谷川櫂
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