ごはんの美味しい天丼 住職の宿題
本日の夕食は家族で丸亀製麺へ。
最近のお気に入りはどんぶりにご飯をもらって好みのてんぷらを乗せ天丼にすること。
京都に行ったとき何軒かの丸亀製麺で食事をしたのだが、
なぜか舞鶴の丸亀製麺のほうがご飯が美味しいことに気がついた。
丼によそってもらうご飯もおにぎりも舞鶴の店舗のほうが美味しく感じたのである…
お店の方に聞いてみたが地元のお米を使っているわけでなく、
恐らく各店舗同じ米を使っているはずなのだが、なぜか美味いと感じる。
粘りがやや少なく、サラッとした感じのお米である。
きっとカレーをかけても美味しいにちがいない。
〆にだしの利いたうどんを一杯頂くと1日の疲れが無くなりました。合掌
来週から気温が12月並に下がるとのこと。紅葉の変化が楽しみである。
今朝、赤レンガ倉庫で行われる田主誠さんの版画展にいくために車に乗りながら今年の紅葉についてあれこれ考えていた。
ふと、青いもみじではなくて赤いもみじがいいとか、どうせなら鮮やかな赤がいいなどと考えている自分に気がついて、気持ちが醒めた。
自然に対して勝手に自分の好悪を反映してああでもない、こうでもないと考えている自分に気がついたのである。
これはあんまり褒められたことではないなと気がついた。
住職、まだまだ青いのである(苦笑)
同じ言葉でも仏教用語と一般語では用法の異なる言葉も多い。
たまに真逆になるものあって面白い。
普通は「無学」という言葉は学問が無いことを指すが、仏教用語としての「無学」というのはこれ以上学ぶものがないという高い境地を指す言葉であり、最高の悟りの境地を意味する。
「無分別」という言葉も一般には思慮がなく軽率なことを意味するが、
仏教用語としては、いい意味で区別する心を離れ得た状態を指す。
もみじは赤いほうがいいとか、青や茶色のもみじでは嫌だというのは自分の中の区別する心である。
その区別する心が自分や他人に向けられると結局、際限の無い悩みや苦しみの種となる。
人と比較する心、優劣をつける心、増長、卑下、自己嫌悪…
もっとも綺麗なもみじを見ようを心を時めいてこられる方に「それは分別ですよ」
というのは少し酷ではある。そこらへんの折り合いをどうつけるかはこれからの宿題である。
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