師走の山寺 高楠順次郎 お釈迦様のジョーク

 




週間予報に早くも雪だるまの絵が…長期予報でも大雪とのこと。


少々思いやられます。





一昨日は奈良で会議。昨日は忘年会1件。来週は霊場会の年度末総会も予定されているので今月も足早に過ぎていきそうである。



今年、お世話にな方や大切な方を何人も送らせて頂いたことが心に浮かんでくる。



年末の心落ち着かないさと全く対照的で、どこか心沈むものがある。



その違和感にひどく不自然に思いながらも日常がすぎていく。




ふと開いた本に「愚かな者はただその果報だけを望む」と書かれてあった。




山寺を3つ兼務しているが、時々、何とかしないと…という気持ちが空回りしてついつい自分に都合の良いことばかり考えてしまう。自分の気持ちにぴったりしすぎていて苦笑。





その本に広島生まれのの仏教学者であり仏教教育に功績のあった高楠順次郎のことが書かれてあった。高楠は「大自然は人間を育てる」という雄大な理想のもと武蔵野女学院を創設する。


当初、高楠は入試制度は若者の心身を損なうという考えから試験制度を廃止した。「大自然の中に生活していれば人間はおのずとから人間と成る。教師とはその手伝いをする者である」というのが教育方針であった。


だが評判を聞いて応募者が殺到し、仕方なく試験制度が採用された。高楠の言葉に次のようなものがある。


『世渡り世渡りというが、それは世流れである。この世を渡るどころか、みな、世に流されている。』


最近は金融教育などと称して子供に一億円の金塊や札束を触らせる…などという報道を見るとそのスケールの小ささに少々うんざりする。世の中はますます功利的になっているような気がする。


自分自身も世の中を渡っているのか、流されているのが…忸怩たる思いがある。


そもそも仏教に携わるなら、自分が世を渡るだけでなく、もっと遠大なる彼岸へと人々を渡すことに尽力するべきでないか…





仏典の中にお釈迦様がちょっとしたジョークを言われる場面がある。


お釈迦様の一団が川岸に至られ、お釈迦様はそこにいた船頭に向こう岸に渡してほしいと頼まれるのである。


手元に資料が無いのの正確には記せないがおよそこんなことを言われるのである。


あなたは人を対岸に渡すを生業とされているが、私もまた人々を彼岸に渡すのが仕事である。私達は同じ仕事をしているもの同士ではないか。どうか私達を向こう岸まで渡してはくれまいか。


きっとお釈迦様は微笑みながらこういわれたにちがいない。


その御顔を思い浮かべるとじんわりと心が温かくなる。


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