明日は空海 


兼務寺院に行ったら檻にアライグマがかかっていた。
今年に入って3匹目である。


前回は農林課が回収に来る1時間前に檻から逃走したので、今回は檻の入口を針金で固定。


殺生は可哀想だがお寺の護持するためなので仕方がないのである。


最後の晩餐におまんじゅうをどっさりあげました。





福知山のあじさい寺丹州観音寺の住職小藪実英師の法話「今空海に学ぶこと」が明日の午後6時半よりNHK第2放送にて放送されます。


ご都合のつく方はお聴きください。


【関連記事】http://www4.nhk.or.jp/kokoro/2/


ところで…


私は一応、真言宗の寺の住職なのですが…


今頃になってやっぱり弘法大師空海様は偉大であると思うこの頃であります。




空海様以前は無限に近いの時間修行しないと仏になれないとされていたのを、空海様はそうではない今生で仏になることも可能なのだと言われたわけです。


なるもなにも、私たち自身が既に仏としてこの世にあることに気がつきなさいと。


「〜になりたい」ということはその〜とはそもそも別のものであるというところから出発していることになります。





現実を見れば、今の自分と仏の自分との間には無限の隔たりがあります。


ですが…

自分も仏になれるのだ

自分も大日如来なのだ

自分も空海になれるのだ



そう思うと単純な私などはなんだか元気がでてきます。


私って相当に単純なおバカなのでしょうね(笑)





時間や空間には物理的な高さではなくもっと質的な高さの次元があるのではないか?

ということを少し前に書きましたが


この世はひとつではなく沢山のの世界が重なりあっていて、自分が仏であると認識することはより高い世界にアクセスすることではないかという気がします。

同じ世界に在るようにみえて、或る人はより高い世界にアクセスし、或る人はずっと低い世界にアクセスしている。




自分をダメだという人はどんどん低い世界にアクセスしていきます。


ただ自分はエライぞすごいんだと威張っている人がそのまま高い世界の人かというと


私たちの認識する高さと質的な高さは合致しないことが往々にしてあって


謙虚や素直で自分を低い場所における人は質的な高さの次元では高い部類になる。


威張っている人は逆に低い世界になる。


社会的な地位が高い、お金を持っている、知識がある…といったこの世的なすごいことが実は別の視点からは全然どうでもいいことなのかもしれない。


それどころかもっと大切なものをないがしろにしてそれらをせっせと追い求めることは大きなマイナスなのかもしれない。


悪人が救われるという「悪人正機」の本当の意味は


自分こそは悪人だという(自己卑下ではなく)謙虚な、素直な、純粋な気持ちの人は高い意識なのだと解釈しています。


キリスト教でも「心貧しき人は幸いなり」という有名な一節がありますが、なぜ心貧しいと幸いなのかといえば、やはり同じように謙虚に自己を省みて自分を低くおくことができる人こそが神の祝福を受けられるのだと私は解釈しています。




この世でサラリーマンや主婦として普通に生活していても仏の世界に意識をおくことができれば即心成仏への一歩一歩を歩んでいるのではないか。

仏になるというとパーッと金色の光を放ってみたいな感じですが(笑)

外見は普通のまま…ただ意識だけが高く、清く、強くなる

この世に生まれたということはこの世で果たすべき何かがある。

ただこの世にあることはある種のハードルであってそれをこなしつつ、この世の価値観だけに染まりきってしまってはならない。

そんなことを空海様の著書から感じます。


真言宗で良かったなと思う今日この頃。


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