春の足音 イラッとする話

 



車で走っていて、早くも水の張られた田んぼがあることに気がついた。




この時期、道路に泥が落ちていたり、泥の轍の跡が残っていることがある。




これは大抵、耕運機が走った跡である。



道路の土を見るといつも春が来たなと思う。




朝来の桜並木もまだまだ見ごろである。






最近よく使われる言葉が「イラッとする」という表現。




「イライラする」だとそれなりに我慢した痕跡があるが、



「イラッとする」だと出来事にすぐさま反応している印象をうける.




「腹が立つ」とか「堪忍袋の緒が切れる」とか(死語?)に比べると




我慢のリミットが下がっている気がします。




密林でもポチッとクリックするとすぐにものが買えてものすごく便利だし、



ネットを使えば昔なら図書館に行って調べていたような情報が簡単に手に入る。




待つとか我慢するというプロセスがなくなるのは便利にはちがいないが、



私達の心もどこかそれを当たり前と思っていると




ままならないものについて我慢するとか、折り合いをつけるとか、
上手くいかないことも、ま、いいか…と鷹揚になったりとかいったことができなくなるのかもしれない。









面白いことに


「一生の呼吸の数は決まっている」


と主張する人がある。


あながち根拠の無い話でもなのではないかと思っている。






つまり呼吸回数を減らすほど長生きできることになる。
逆に呼吸が浅く短いと短命だということになる。





吐く息を長くするということを意識して呼吸するだけでストレスが緩和されたり、体がリラックスするのを感じることができる。これはかなり即効性がある。




だから吐く息を長く呼吸するというのは習慣付けても損ではないと思う。




意識や体をコントロールする方法としてもっと研究してみたいと思っている。






庫裏の壁に時刻表が壁に貼ってあるのだが、
時刻表の横にいくつかの企業の広告が載っている。




その中に某大手葬祭業の広告が載っているのだが、その文言の中に



「宗派形式をこえて」



と書かれてある。



「宗派をこえる」とはどういう意味なのだろうかといつも思うのである。



多分、広告の趣旨としては<どのような宗派や形式にも対応できる>というくらいの意味なのだろうか。



『ウチは真言宗だけど日蓮宗でお葬式したみたい』



というような状況をイメージしてしまう。



そんなに簡単に宗派を超えられても困るのだが…



これは言葉の選びかたをまちがっているのではないかな…と。




時々イラっとします(笑)





ちなみに七福神の布袋さんが背負っている大きな袋は「堪忍袋」とよばれることもあるそうである。ちょっと面白い。




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