夕焼け小焼け この世は花で飾られていると

朝から大型台風接近のニュースで持ちきりである。


その影響であろうが本日はまことに蒸し暑い1日。


夕方、少しだけ風が涼しくなった頃、外を見たら夕焼けがとても綺麗だったので、妻と子供を呼んでしばらく夕焼けを眺めた。


そういえば蒸し暑い1日の夕方に限って美しい夕焼けだったことが何度もあったことに気がついた。



まるで蒸し暑い1日を我慢したご褒美のようである。



夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる



『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)

『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)


中村元「『華厳経』『楞伽経』」(東京書籍)について。


華厳経」では善財童子が53人の様々な階層の人々を巡る部分が有名である。


善財童子が訪れるのは菩薩や修行僧だけでなく商人、子供、卑民、といった様々な階層、職業の人々である。




そのなかには遊女も含まれていて、その遊女の教えが面白い。





私と語るものも、私の手をとるものも、同じ宿にとまるものも、私を見るものも、私と抱擁するものも、私と接吻するものもみな三昧の境地に至る…というのである






遊女と関係を結ぶということはいうまでもなく性的な関係を指すのだが、この遊女はそれらを機縁として相手を三昧という深い宗教的境地に導くというのである。




インドでは東西の交易により莫大な富が集積された。


遊女の一部は非常に社会的身分の高い者もあったという。
(江戸時代の花魁のようなものか)


遊女を見る、手をとる、抱くという行為からそのまま三昧という深い宗教的境地に導かれるというのである。


この部分をどのように解釈するかは「華厳経」より後に現れる密教経典の解釈に通じるものがあるのではないだろうか。


密教経典の「理趣経」によく似た部分がある。


それゆえ昔から「『理趣経』は性を大胆に肯定した経典である」などと言われる。



それにしても非常に残念なのことがひとつ…


この部分についての中村先生の解釈説明である。



人生の煩悩や欲望を通り抜けて、すいも甘いもかみわけた人には、やがて解脱の境地がひらかれるということ…


という解釈を披瀝しておられますが、正直がっかり。


それはないじゃないでしょうか…



人生経験豊富なものが悟りを開ける…


ってそんなもんじゃないと思うのですが。



このシリーズは日本で重用されてきた大乗仏教の主要経典の抄訳と解説で構成されていて大乗仏教(=日本仏教)の素晴らしい入門と概説になっている。


密教経典」の巻も既に発注していて読むのを楽しみにしていたのですが


理趣経」の解釈を読むのが怖くなってきました。


華厳経」は仏陀が悟りを開いた状態を説いたとされる。



一切の現実を真実の眼(悟者の眼)で見るならそこに真理に満ちた世界が展開する。


華厳経」の「厳」とは「美しく飾る」ということである。


色とりどりの華(蓮華)で飾られた美しい世界である。


恐らくその蓮華は単なる美しいものであるだけではなくて、そのなかから一切を生み出す存在なのであろう。


だからこそ三昧を得させる遊女とは遊女の姿を借りて表された仏そのものではないかと思われる。



だからこそ性の交わりする人々を三昧に導けるのである。



一見、愛欲の世界にみえてもそれは真実の眼から見れば悟りの世界となるというである。


(明日に続く)


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