経験値 お大師様が… 人生を支配するもの 夢のつづき

サルスベリが花を落としつつある。キンモクセイの香りが心地よい。




先日は久しぶりに大きな法要に出仕。



かなり緊張した…




僧衣もいろんな種類や形式があり、地域や宗派によって『一応、持っているが着る機会がない(殆ど無い)僧衣』というのがある。




先日はいままで1回しか着た事ない衣を着て出仕したら…




衣の前後を逆にして着用していたという恐ろしい事実が後ほど判明…





幸い気がついたのは1名のみで安堵?…




お坊さんとしての経験値を上げるのはなかなか難しいのである。









欲しいものがあってヤフオクをみていたら、仏像の出品のところに弘法大師様の木造があった。(別に仏像を買うつもりはありません。念のため…)



お大師様が座して胸にを五鈷杵をあてておられるお姿なのだが、五鈷杵が欠けて、御顔が少し汚れていた。すると…



弘法大師(ジャンク)』



と大きく書かれてあった…



いくらんでもお大師様に「ジャンク」とは…と眼がテンになりました。


そのうち私も…



『住職(ジャンク)』



と言われるようになったりして…







パラマハンサ・ヨガナンダとの対話

パラマハンサ・ヨガナンダとの対話





パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」を読んでいたら次のような一節があった。




『人の生活を実際に支配しているものは、たまたま考え付いたこととか、優れた着想とかではなく、日々の習慣です。』



全くその通り…



「習慣」…ごく日常的に当たり前のように使われる言葉だが、考えれば考えるほど恐ろしい意味を持つ。




人生を支配しているのは習慣であるというのである。




習慣とは、その人が常に行っている、あるいは陥りやすいところの思考、感情、行動、嗜好などなどがその正体である。




実は、それこそが私たちの人生を支配しているものに他ならない…




一見、平凡だが実に深い言葉だと思う。




そして私たちは自分が築き上げてきた傾向性の大きな影響下に在り、多くはそのことを自覚されない。



そしてもしその傾向性を正しくコントロールすることができれば人生を激変させる可能性があるのである。



著者によればもし悪い習慣に悩まされているとしたら、それを必死で避けようとしてその習慣に集中するよりも、その習慣を引き起こし、促すものを避けることによって、それを弱体化し、心を良き習慣のほうにむめるようにという。




これも至言だと思うのである。




自分を変えようとして変えられずに落ち込む…というのは止めたほうが良いということである。





…昨日はここまでブログを書いたところで娘を寝かせにいって爆睡してしまった。無念…




昨晩は面白い夢をみた



岸壁の上に並ぶ大勢の人間が、一人づつ眼下の海原の中に飛び込んでいる。



洋上には大勢の敵が攻め寄せてくるのが見える
(どうも先日来読んでいる「ノルマンディー上陸作戦」の影響らしい…)



1人1人が順に海に飛び込んでいく。眼もくらむような岸壁で飛び込めば命は無い。だが不思議と恐怖感がない。







ところが自分の番が巡ってきたときに突然、飛び込みたくない!と感じた。






まだまだ遣り残したことが沢山在る…と思いきり執着し始めるのである。



お寺の跡継ぎもいないのに…と現実的なことまで考える。



そこで眼が覚めた…




日頃達観したようなことも言うくせにまだまだ普通の感覚が残っていると笑いがこみあげた。






「一炊の夢」という故事がある。(「邯鄲の夢」「邯鄲の枕」「黄粱の一炊」とも)



唐の盧生という青年が、身を立てようと楚国へ向かう途中、邯鄲の地で道士に枕を借りてひと眠りし、その間の夢で、栄華を尽くした一生を送るが、目覚めてみると、まだ炊きかけの粟飯もできあがっていない程の短い時間にすぎなかった…




この青年はこのことから人生の儚さ、栄華を追うことの空しさを悟ったとされる。



人間は死んだらどうなるか…



死んだらそれっきりで、死によって意識自体も消滅する考える向きには以下はどうでも話である。



死とは、一種の目覚めを伴うものでなないだろうかと考えることがある。



死を契機としてそれまでの人生をひとつの夢として受け入れる感覚が生じるのではないだろうか。



全ての人がそのような感覚を持つわけではないだろう。



例えば強い恨みを持って死ねば、残念ながら、非常に強い執着をのこすとされる。



或いは死んだらそれまで…という意識があまりに強すぎればやはりいろいろな問題がおきてくるように思う。




死を契機として、これまでの人生は夢のようなものだったのだ…と達観することもあるかもしれない。



自分が必死に追い求めてきたこと。満足や不満。喜びや悲しみ。怒りと許し。



死というのは、生前の生をある種の夢として目覚めるという感覚ではないか…と時々考えてみる。



私はこれからも今朝の夢のように執着を重ねていくのか…



あるいは今も夢のなかにいるだけなのか…




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