シスターと道元




東福寺派の御住職にお逢いしたら、「惠日」という広報誌を頂いた。



もっとも…



達筆すぎて最初は誌名が読めなかった




…ので最終ページの後書きを確認(カンニング)。






「一時(いっとき)座禅すれば、一時の仏なり。
一日座禅すれば、一日の仏なり
一生座禅すれば、一生の仏なり」




東福寺の開祖である聖一国師の言葉である。




「座禅」を「念仏」に代えても、「三密」に代えてもよいだろう。



含蓄のある言葉だと思う。



置かれた場所で咲きなさい

置かれた場所で咲きなさい



「恵日」の中に渡辺和子氏のエピソードが載っていた。




ノートルダム清心学園岡山県)の理事長である渡辺和子さんという方は恐らく日本で一番有名なシスターであろう。



(渡辺氏の父君は二・二六事件の際に暗殺された渡辺錠太郎氏で、和子氏の眼の前で無数の銃弾を受けて絶命された。)



渡辺さんはアメリカでシスターの勉強をしていたときに食事の配膳をすることになった。つまらない…という思いで皿を並べていたら指導係の先生から「シスターはどういう気持ちで皿を並べていますか」と尋ねられた。心を見透かされた思いで黙っていると「シスターは時間を無駄に過ごしています。同じ皿を並べるなら、やがてそこに座る一人ひとりの幸せを祈りながら並べたらどうですか」と教えを受けた。
渡辺さんは「つまらない、つまらないと思って皿を並べたら、つまらない時間をすごしたことになり、つまらない生命の使い方をしたことになる。お幸せに、お幸せに、と祈りながら並べたら愛と祈りの時間を過ごしたことになる。その祈りがやがてそこに座る人に届くか届かぬかはどうでもよい。時間の使い方は命の使い方です。一時間をどう生きるかということは、一時間の生命をどう生きるかということです」と説く。




面白いと思ったのは若き日、求道の為に中国に渡った道元禅師のエピソードにこれとよく似た事柄を読んだことがある。



道元禅師が中国で炎天下に椎茸を干している典座(「てんぞ」厨房担当の僧侶)から大切な教えを受けるという有名なエピソードである。




【関連記事】http://www.sojiji.jp/info/hyogo/1205.html



さらにもうひとつの有名な逸話があって、これにも「典座」と「干し椎茸」が出てくる。




往時、日本の干し椎茸は味が良いことで珍重されていたらしい。道元の乗っていた船に日本の干し椎茸を買い付けにきた典座から仏法の精髄を指南されるというもの。




道元禅師は日本の仏教史に偉大な足跡を残した禅僧であるが、「干し椎茸」を機縁として禅の大切な教えを悟る…というのは面白い。



日常茶飯のなかに真理を見ることができるということは本当に素晴らしい。




私などは仏事の最中に気持ちが放漫になってしまうことがある…




仏事聖事の中にあって心が離れていれば、それは仏事聖事とよべなくなるし、しかも外側からはそのことはなかなか見えない。仏事聖事を重ねていても心の在り様を問われると汗顔の至りである。




典座教訓・赴粥飯法 (講談社学術文庫)

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