少女H 消極的 人生ゲーム
ソヴィエト赤軍興亡史 (3) (欧州戦史シリーズ (Vol.16))
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 2001/07
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相変わらず娘が寝ないので寝かせつけるのに一苦労している。
寝かせるためのおとぎ話も面白いとむっくり起き上がりテンションマックスへ。
退屈な話を聞かせたら寝るか…と思い、昨日は枕元にあった「ソヴィェト赤軍興亡史 第三巻」を朗読してみました…
が、効果なし…
今度は読経してみようか…
大人でも寝る人がいますからね(笑)
娘はどんどん寝相が悪くなり、川の字で寝るはずが180度体位変更して私か妻の体に足をかけて“H字”になって寝る…
おかげで2人とも頭痛、肩こり、夢見が悪いなどの深刻な被害にあっている。
ノルマンディー上陸作戦 (欧州戦史シリーズ (Vol.8))
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 1999/03
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ところで学研の『第二次大戦欧州史シリーズ』にすっかりはまっている。
映画、小説、戦記などでは伝わらない戦争のディテールが伝わってくる。
イラスト、写真、CG、模式図、構造図などを駆使しつつ時系列の年表、人物列伝、兵器兵装特集、コラム、現地取材などを組み合わせた立体的な構成でどこから読んでも面白い。
最近買ったのは「ノルマンディー上陸作戦」。
有名なオマハビーチの戦闘だけでなく、兵力300万、艦船6000隻、航空機14000機を統合した歴史上最大の上陸作戦についていろんな切り口から掘り下げられている。
大昔に観た「史上最大の作戦」をもう一回みてみたくなった。
- 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
- 発売日: 2014/05/16
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時々、無性に座禅したくなることがある。
考えてみると、様々な行法の中にあって、座して動かないとは極めて消極的な行為といえなくないだろうか。
想念そのものの停止を(厳密には集中や放散というプロセスがあるが)行うというのは消極的の極みといえるかもしれない。
武術について随分熱心に考え、いろいろ試行錯誤していた時期もあったが、ただ立つという中国武術の“站椿”(たんとう)はやはり究極のトレーニングであろうと思われる。
相手に先んじて、早く動くことが求められる武術にあって、《動かない》ことが最高の?トレーニング足りえるというのはなんとも興味深い。
食においても《食べない》という極めてシンプルな選択が心身に極めて大きな影響を及ぼす力は大きい。
世の中を見れば美味なるものを食べるということに人々は恐るべき情熱を傾けている。
そして過食や美食を原因とした様々な病が蔓延している。
現代の私たちはもっと<食べない>という消極的態度をもう一度考えてみてもいいのではないだろうか。
現代では積極的であることが人生の勝利につながる印象があるが、そのような時代のなかで『消極性』ということを追求してみることもまた面白いと思う。
- 作者: 菅野博史
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/09/20
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前回、菅野博史「法華経入門」について少し書いた。
「法華経」のひとつの特徴は様々な比喩が駆使されて教えが説かれていることとされる。
菅野氏はあらゆる人々を未来の仏として尊敬するという常不軽菩薩を「法華経」の精髄として評価する。
自分の最近の関心に牽強付会するなら、人は未来において仏になるのではなくて、すでに仏であることを悟ることによって仏になるのではないだろうか…という考えに強く引かれている。
有名な『長者窮子』の比喩ではもともと富裕な長者の息子が零落して長者に救われ、長者は息子が長者の息子であることを少しづつ理解できるように仕向け、最期に自分の莫大な財産のすべてを託する。
あるいは
親友が自分の衣服に高価な宝玉を縫い付けてくれていることに気がつかないまま零落した生活を重ね、最期に友人に再会して自分が無類の宝玉をまとっていたことに気がつくという『衣裏繋珠』の比喩が有名である。
これらの比喩では素晴らしい境地が遥か彼方にあるのではなく、既にその境地を得ていながら、その素晴らしさに気がつかないのだということを示唆しているのではないだろうか。
「法華経」のなかの「観世音菩薩普門品」は独立した経典として扱われ「観音経」と呼ばれ、宗派を問わず広く読経されている。
そこにみられる観音力による救済も、即時即身の救いである。
その部分を強調しすぎると筆者と若干見解が異なることになるが(笑)、まだパラ読みの段階なので即断はできない。もうちょと真面目に読んでみたい。
往時のインドでは高価な宝石がローマと交易され莫大な富を蓄える者もあった。
仏典の中に巨大な富を蓄える富者や宝石がモチーフになるのはそのことの反映なのかもしれない。
比喩によって仏教を語ることもそれぞれの時代や環境によって変化するだろう。
いずれ死を迎える私たちの人生はひとつの仮想空間におけるゲームのようなものと捉えることはできないだろうか。
そのゲームのタイトルは『人生ゲーム』。(古い?)
年齢制限があって高校生までしか、そのゲームをプレイできない。
ゲームの中では政治や経済が営まれ、出世して権力の座に上ることも、富を蓄えることもできる。
『人生ゲーム』で遊んでいる高校生がひたすらゲームに没頭し、最高の地位や権力を手に入れ、莫大な財産を築いたとする。
彼はゲームのユーザーのなかでは有名人となり誰もがうらやむ存在となる。
しかしそれはあくまでゲームという仮想の世界のものである。
その高校生が高校を卒業すれば、『人生ゲーム』のユーザーたる資格を失い、就職や進学を選択しなければならない。
当然ながらそのゲームのなかで手に入れた巨大な地位や莫大な富が役に立つことはない。
この世で立身出世や蓄財に努力して他を顧みないというのはそのようなことに近いのかもしれない。
いつか死という帰路に立ち、次の世界に移行するときにこの世での地位も財産もその多くが無為となる。
もちろん社会的地位や財産を得るために為した全うな努力、それらを通じて為した社会への貢献、善行などは評価されるにちがいないから地位や財産を築くことが無為であるとか否定されるべきだというつもりもない。
ただ、現代の日本ではあまりにも現世が全てという価値観が横行し、幅を利かせすぎている気がする。
宗教や道徳が安易に否定され、人々は地位や名誉や財産に腐心し、経済優先、物質主義、科学万能主義が多いにもてはやされている。
1人の例外もなく死を以ってこの世での人生と決別し、新しい存在となる…仏教の探求を通じてこの世の価値観だけで生きることに疑問を呈することができれば…と思うのだが。
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