雪の日に思い出すこと 小三治の意地


本日は初めて雪が積もる。


気温は随分と下がったが夜半には雪は消えてなくなった。







冬というのは気持ちが内側に向かうのか、昔のことを思い出すことがある。




どちらかといえば寂しいような、悲しいような、懐かしいような感覚である。







昨日、仕事の合間に浄土真宗の住職の祖父江佳乃さんの説教を動画で観ていた。



実に良く通る、歯切れの良い声で、ゆっくりと丁寧にお話をされる。



聴衆が多いせいだろうか常に御顔を左右に向け、話が広い本堂に行き渡る様子が手にとるように分かる。



少々耳の遠いお年寄りでも十分に理解できる声の大きさ、分かりやすい話し方。咬んで含めるようなお話ぶりである。




昔はお寺の本堂で大勢の信徒さんが楽しみに聞かれたのだろう。




そんなことを想像していたら、子供の頃読んだ話を思い出した。



子供の頃から本が好きで、時々昔読んだ本の内容を断片的に思い出すことがあるのである。





何十年も前の記憶なので定かではないがこんな話だ。



著者は子供の頃、雪国の農村で少年時代を過ごした。



浄土真宗報恩講という行事に村人が集うのが常で、そこでは大根炊きが振舞われた。、



子供を叱り飛ばす年配の大人(檀家総代?)がいた。ある冬の日、子供達は落とし穴をほって、この憎らしい檀家総代をやっつけてやろうとした。



大きな落とし穴を掘って、待ちかまえていると輪袈裟をかけた男性が歩いてきた。子供達はてっきりこの男性を檀家総代だと思った。総代氏は輪袈裟をかけていたからである。ところが…



悲鳴と共に落とし穴に落ちたのは和尚さんだった…



…確かそんな話である。



記憶はおぼろげだが、この話を思い出すたびに昔の雪国の農村の様子が眼に浮かぶ。




寒い冬の日、娯楽も少ない農村では本堂で住職の説法を聞く。




しんしんと冷え込む本堂の中で聴衆は静かに説教を聴いている。






説法が終ると、にぎやかに語らいながらお接待の大根を食べる。


 


炊事をまかされた女性達は土間で話に花をさかせ、男性は酒盛りを始める…




大根を炊く鍋からあがる真っ白い湯気…




…そんな様子が眼に浮かぶようである。




歳をとるということは昔のことを思い出すことなのかもしれない。








小三治師匠の「意地くらべ」を動画で観た。



落語っていいな…


思わずそんな感慨が浮かぶ。


聴衆は小三次師匠の登場した時から笑う準備をしていて、どうかした拍子に堰を切ったように笑いが起こる。




特別な事件がおきるわけでは無いが聞き手が少しも気持ちのゆるみもなくは話に引き入れられていく。



落語には嘘がつけないという、自分の気持ちに正直な登場人物がよくでてくるがなんというさっぱりとした小気味良い人生観ではなだろうか。






現代に生きる日本人が忘れかけている大切なものがそこにあると感じることがある。





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