冬の日に 舞鶴の戦争遺産

 





午前中雪かき少々。



最初は寒かったがすぐに身体がポカポカと温かくなってきた。



一区切りついたので手を休めると、一面の雪景色と静けさが心身にしみわたるようで心地良かった。静かな空気の中で沢山の野鳥がさえずっていたのが印象的だった






買い物に行く途中、車で国道そばお畑の横を通ると大きな柿の木があった。



落葉しているが大きな柿の実が数十なっていて、完熟した柿の色と雪の白さがキャンバスに描いたように綺麗だった。



数羽のカラスが枝に止まって柿の実をつついていた。



枝の上にひときわ大きなシルエットがあったのでよくみたらサルだった。








昨日、深夜に車で帰ってきたら道路をゆっくり歩いている人が居たので、夜分に物好きな人もいるものだ…と思ったら大きな雄鹿だった。




地面から角の先端まで2メートル近かった。



悠々と歩いていたので人間と間違えたのだった。



同じ鹿らしいのが本夕も門前のつつじを食べていた。



頻りに動物に出会う気がするが、餌を見つけにくくなって盛んに活動しているらしい。











以前、老僧から舞鶴の火薬廠のそばを流れる川の色が黄色だったと聞いて頭の隅に残っていたのだが、最近、お出会いした方から舞鶴で下瀬火薬作っていたと伺った。






下瀬火薬は日本が開発した高性能火薬で日本海海戦では日本の砲弾に下瀬火薬が使用され、ロシアの艦艇に大きな被害を与えたことが勝利の大きな要因だったとされる。





下瀬火薬の成分はピクリン酸という物質で最初は染料で開発されたものらしい。
ピクリン酸について調べると輝黄色の物質とのことでようやく老僧の話とつながった。
黄色い水というのは下瀬火薬を製造中にできた排水だったのだろう。



下瀬火薬は炸裂威力が圧倒的であり、炸裂した砲弾のかけらは激しい勢いで飛散し、3000度もの高熱ガスを発生させた。ひとたび命中すれば爆風と熱によって、艦船に大きな被害を与えた。下瀬火薬はまた海軍少尉の伊集院五郎が開発した鋭敏な「伊集院信管」と組み合わされたこともその効果を大きくしたとされる。鋭敏な伊集院信管により砲弾は海面に落ちても爆発を起こし飛散した砲弾片によってロシアの艦艇に大きな被害を与えた。ロシアの艦隊は下瀬火薬の砲弾に悩まされ、航行不能となり、魚雷や艦砲射撃によって撃沈されたとされる。



下瀬火薬は扱いが難しく1905年に旗艦三笠が佐世保に帰港した際、艦内弾薬庫の下瀬火薬が誘爆して爆沈し、着底する大事故を起こした。この事故での死者は699人で日本海海戦の日本軍死者総数110人を遥かに上回る大惨事となった。



舞鶴にはの火薬廠の設備の一部が残っており一度訪れてみたいと思っている。




地元舞鶴には戦争の遺産とよぶべき事物が沢山残っており、されらをもっと発掘して光を当てることができたら面白いと思う。





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