青葉山登山 微妙なる「曼荼羅イコノロジー」

しばらく前に小学生の姪と話をしていたら市内の陸上大会に出場するという。





そのうち姪は「競争しよう」と言い出した。




こういう場合相手が幼児や低学年なら勝たせていいのだが、高学年となれば大人の厳しさを教えねばと思い…




全力で走ったら勝った…



その場はそれでよかったが、何しろ普段“走る”ということを全くしない人間が、突然、全力で走ったことがどうも影響したらしく、しばらくして微妙に心臓が調子悪い気がし始めた(笑)なんとなく動悸がするのである。(厳密には「動悸がするような気がする」)





近々、友人と軽い登山をすることになっている。
登山開始早々、体調不良で落伍…などということになれば同行する友人に迷惑をかけることになる。



登山に向けた足慣らしと心臓の調子を確かめるべく?青葉山に登ることにした。




青葉山に登るのは何十年ぶりだろうか…




青葉山京都府福井県の境界に位置し、その秀麗な姿から『若狭富士』の名で知られる。




中腹には西国観音霊場札所で名高い松尾寺がある。





ネットで登山ルートを調べてから松尾寺の境内にある登山口から登り始める。登山開始は午前9時。



登山道は標識を完備しているので私のような方向音痴には有り難い。
難所にはスチール製の階段まである(確か昔は岩場に太い鎖が下がっていたはずである)



それでも山道は狭い箇所が多く、大量の木の根が地表に露出していて足をとられる。熊笹の生い茂った道をかき分けて進む場所も多い。(案の定、ズボンに1センチくらいの大きなダニが取り付いていた。“タカサゴキララマダニ”?)約1時間かけて東峰に到着。




気候はさわやかで山の冷気が心地よい。
霊山に相応しく、俗界を遥かに見下ろす眺望はまことに素晴らしい。




当初は東峰だけ登って帰る予定だったが、ちよっと欲が出た。
そのまま帰るのも勿体いないので隣接する西峰まで足を伸ばす。




峰から峰への縦走なので高低差が無いと思っていたら大間違い…岩場を綱につかまってカニ歩きするような箇所まである。30分かけて西峰に到着。正午にラポールで妻と待ち合わせしていたのでもと来た道を戻り西峰から1時間かけて下山した。所要時間2時間30分。もう少し時間を短縮したかったが、前日の雨で足場が悪かったので仕方がない。



松尾寺の境内間近になって雨が落ちてきた。木々が繁っているので濡れるのは僅かだったが、誰も居ない山道にたたずんで遠くから雨脚が近づいてくるにを聞くのはなんとも心地よかった。



とりあえず心臓に大きな問題もなくトレーニングは終了。





安心して登山にいけそうである。








本日は曇りのち晴れの予報だったが、昼前に突然、雨が降った。




妻が布団を取り込もうとして外に出たら、庫裏の玄関先にある栗の樹のところに猿が居たとのこと。




老僧が鹿対策に栗の樹の廻りにネットを張っていたのだが、猿がネットを持ち上げて覗いていたという。



猿は妻と眼が合うと歯をむいて威嚇。(猿にとっては眼を合わせるのは“闘争”の意思表示なので、女性や子供は猿の眼は見ないほうがよいと思う)




丁度、昨日、密林に注文したばかりの防犯アラームが届いていたので、ネットに設置した。



衝撃を与えるとかなりの大音量がして庫裏の中に居ても聞える。鹿を驚かすのが目的で購入したのだが、猿にも効果があるだろうか…




ヤザワ ガラス振動センサーアラーム SE10

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【価格554円なり】







書道の参考書に「微妙法門」という言葉が載っていた。
「びみょうほうもん」ではなく「みみょうほうもん」と読む。




仏教用語としての「みみょう」は言葉で言い表せない、深遠さ、素晴らしさを表わす言葉である。





若い人の言う「ビミョー」は可もなく、やや不可くらいのニュアンスがあるので、もともとの使われ方とは天地の開きがある。




曼荼羅イコノロジー

曼荼羅イコノロジー





仏教の大好きな友人に何か本をお貸ししようと思って、蔵書を探していたら田中公明「曼荼羅イコノロジー」が出てきた。




田中氏は若くして仏教図像の研究を志されたが、現在はチベット仏教についてもまとまった著書があり、密教研究全般に大きな足跡を刻まれつつある。



曼荼羅イコノロジー」の内容は卓見に富む内容だと思う。




例えば曼荼羅では様々な仏がその持ち物で表わされることがある。



弓、矢、剣、杖、蓮華など仏の力や性格を象徴する器物で仏が表わされるのである。




これは一見、不思議なようだが、田中氏は“連想ゲーム”だと思えばよいという。




曼荼羅は本来、着色した砂などで土の壇の上に書かれるものであった。




従って土壇という限られた面積に、砂などで仏の細かな違いを描き分けるのは難しかったにちがいなく、仏をその持ち物で表わすことはごく自然なことだったと推測される。




よく知らないものからみれば、様々な仏がその持ち物で象徴されることは一見、不思議であるかのような印象を受けるが、その背景が分かってしまえばその必然性や便利さに納得がいく。



密教曼荼羅に象徴的な手法が取り入れられていることから、密教曼荼羅)は神秘的である…という捉え方をするむきもあるが、実は合理的な必然性が背後にあることは知っておくべきだろう。尤も、神秘的という印象がその魅力につながっている側面も否定できないが…



護摩を焚く際に炎の中にまず利剣をイメージし、それが変じて不動明王になる観想があるが、これも合理的な連想ゲームの一種かもしれない。)




曼荼羅イコノロジー」は曼荼羅を通じて密教の奥深さを分かりやすく伝えてくれる好著であると思う。



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