サンタ来訪 聴こえない音 葬儀
朝方、娘の枕元にプレゼントの包みが置いてあった。
クリスマスには不在なのでわざわざサンタが早めに届けてくれたらしい…
なんて気の利くサンタさんなんでしょう!
娘は大喜び…「サンタさん大好き!」と。
いつまでもこのままでいてほしいと思う親心なり…
【乾燥させたレモングラスの葉】
檀家さんのお宅に伺ったら自家ブレンドのハーブティーをご馳走になり、お土産に自家栽培のレモングラスを頂いた。
抽出に時間がかかるといわれたのでキッチンバサミで短くカットしてから耐熱のティーポットにお湯と一緒にいれ、電子レンジで加熱。さらにいつも飲んでいる紅茶の茶葉を入れて抽出したらまことに美味。
この檀家さんはネイチャーガイドの資格を持っておられて
いろいろなお話を伺うのが楽しみである。
子供達を野外に連れて行き白い紙を渡して「聞える音を描いてごらん」というと子供は実に様々な音を描くのだという。
森というと静かなイメージがあるが、実はいろんな音に満ちているのだという。
森のなかでは人間の可聴域以外の音?即ち、音として聞えない音を私達の脳は捉えていて、そのことで私達は癒されるのだという。
聴こえない音に癒される…
とても心に残った話だった。
デジタル化された現代の音がどこか薄っぺらい気がするのとどこかでつながっているのかもしれない。
最近の音楽を聴いていると時々なぜか不快になったり、違和感を感じることがあって、そのことと関係があるのかもしれない。
今年はお葬式の少ない穏やかな年だと思っていたら僅かな間に何軒も葬儀があり、慌しい師走になった。
最近は亡くなったという知らせを受けて夕方、枕経に行き、翌日の午前に葬儀を依頼されることも多い。
以前はもう少し時間の余裕があった記憶がある。多くは斎場の都合によるのだろうが余りに準備の時間が少ない気がする。
私の感覚では年配の方で自宅に愛着のある方なら何日かは自宅に安置して親族の方ともゆっくり別れの時間を持ち、それから葬儀をおこなったほうが良いように思うのだが、そんな悠長なことも言っていられない時代になりつつある。
葬儀の前に路上に告知の看板が立てられる。
以前は「○○家 葬儀告別式」だったはずだが、「○○家 告別式」とだけ書かれていることが多くなった。
無宗教で葬儀を行わない限り、それぞれの宗教によって葬儀が営まれ、その後で行われるのが告別式のはずだが「葬儀」という表現が忌まれるのだろうか。少し釈然としない。
ある斎場の看板には故人の名前の後に「儀告別式」と書かれてある。
最初は「葬儀告別式」の「葬」という字が脱字したのかとギョッとしたのだが、そうではないらしい。
謙譲を表わす「儀」という遣い方があり「〜に関する」くらいの意味であるらしい。
この看板も葬儀という表現は避けているのだろうがやはり違和感がある。
葬儀には遺影が掲げられるが、時々、生前の故人を彷彿とさせるような満面の笑顔の遺影があり、その笑顔に慰められる心地がすることがある。
儀式としては遺影ではなく、位牌や本尊のほうが大切なはずだが、遺影の存在感はとても大きい。
地元のJAに行くと「遺影撮影会」という看板が掲げてあり、最初は違和感があったが、きちんと撮影された遺影はその方が亡くなった後も家族や知人を慰める。やはり大切なものだと思うが、おおっぴらに人に勧めるものでもないので少し微妙である。
住職が檀家さんに
「『遺影撮影会』にいきましょう!」って言えますかね…
やっぱり言えないですね…
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