朝顔からの妄想 ドクダミ茶
梅雨明けにはまだしばらく時間がかかりそうで、本日から明日にかけて天候不順。
朝方、娘が小学校から持ち帰った朝顔に綺麗な花が咲いていた。
早朝に花を見るというのは良いものである。
まだ覚醒していない頭が鮮やかな色に染め上げられるようである。
朝顔の花を見ながら、なぜ花は綺麗だと感じるのだろうか…と疑問が湧いた。
綺麗だと感じた花がもし本物そっくりの造花だったらどうだろうか?
花と同じ色の色紙を見て同じように綺麗と感じるだろうか?
そんな考えが頭に浮かんだ。
花が美しく芳しいというのは花が昆虫に対して行っているアピールであうと考えている。
これは多分、そんなに間違った考えではないだろう。
人類の起源よりはるか昔に植物の時代があり、植物は生殖活動の補助者として昆虫を選び、昆虫に益する蜜や花粉、昆虫へのマーキングとして美しい色を発達させたのだろう。
花は植物の生殖器といえる。
生殖器も美しく飾り立て、昆虫という異者を呼び寄せるというのはとても不思議な気がする。
もちろん人間中心の狭い視野での見方によれば…であるが。
何もないところに花が咲く、そして時と共に花が色あせ朽ち果てる、さらに種を宿して次の生につながる…
花が咲くというのは生成化育の妙であり、循環という有機的な発展であるだけでなく、宗教的であり、哲学的ですらある。
そのことが花の魅力なのだろうか。
生物の根本の戦略は「生き残る」ということにあるのだろう。
植物が「美しい花」を発明したときに植物によって人間は意識されていなかった。
人類の遠い祖先は植物の下を這い回るネズミ程度の生き物だったからである。
花はいつしか昆虫の感覚にとって快い香りや色や形を見出し、生殖を助ける友人とした。
(このこと自体がおどろくべきことといえないだろうか?)
植物が遥かかなたの未来に人間を意識する日がくるのだろうか?
人類が花を愛でることを植物が意識すればもっと違う花をさかせるのかもしれない。
そのときにどんな花が生れるののだろうか?
朝顔が花のさかりに次々と花をさかせるようにいくつもの妄想が湧いた。
夕方、家に裏手の草刈をしようとしたら妻が青ジソを薬味につかいたいので青ジソは刈らないでほしいという。
よく見ると雑草に混ざって青じジソや赤ジソが生えている。
何本かの青ジソをまとめて移植してから草を刈ろうとしたら思いのほか青ジソが生えていることに気がついた。いつもならまとめて10分ほど草刈機をかけて終わりだが、一旦気になると欲がでて青ジソ、赤ジソ合わせて30本ほどを一箇所もまとめて植え替えてから草刈機を使った。
青ジソはそうめんや冷奴の薬味にし、赤ジソはお盆に収穫して紫蘇ジュースにして飲むことにした。
草刈をしていて気になったのはドクダミ。
ドクダミは雑草のなかでももっとも繁殖力旺盛なものに数えられる。
以前から気になっていたのはドクダミは『十薬』と言われるほど薬効があるとされることである。
薬効のある雑草を食べてみたいと随分前から考えている。
タンポポ、ヨモギ、ユキノシタ…ドクダミもその中に数えられる。
今日は思い切ってドクダミの葉を摘んでおひたしにしてみたが…
なんとも強烈な臭気と味でお世辞にも美味しいとはいえない。
クックパッドでドクダミのレシピを検索したらドクダミの葉で作る酵素ジュースのレシピを見つけたが、時間がかかるとのこと。
さらに生のドクダミを煮出してお茶にするとよいという記事を見つけた。
お湯のなかで生のドクダミの葉を5分ほど煮出すだけである。
これなら簡単である…
一掴みのドクダミの葉を煮出すと、葉の分量が少なかったからかほとんど無色のドクダミ茶ができた。
味は…
微かなドクダミの味のする白湯…
【ウルトラマンの歌うラップ…微妙…】
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