難問 千里鶯啼いて 新緑のお茶会

 




相変わらずカメムシ多し。



事務所で机の真上に蛍光灯があり、夜になると飛び回り…




どうかした拍子に体に取り付いてくる。




昨日などは胸元に飛び込んできて弱った(涙)






子供の宿題を見ていたら時々窮することがあるから恐ろしい。まだ2年の1学期だというのに…




『時計の短い針は1日に何回回りますか?』




…って、こんなの大人でも咄嗟に答えられませんて。








新緑の季節となった。



若葉の鮮やかな美しさは毎年のように感じ入るものがある。



もみじというと人は紅葉を連想するが紅葉は当たり外れがある。とりわけ温暖化しつつあると冴えない紅葉が多くなったが、新緑には当り外れがない。晴天の光輝く様も美しいが雨に打たれる様子もまた風情がある。良き哉新緑。来月半ばまでは新緑を楽しめそうである。





午前中法務があり車で走っていると山肌が新緑の若葉で埋まっている。


山肌の一際濃い緑は杉やヒノキなど植林された樹林である。


それ以外の木立に様々な新緑が見られる。


新緑といっても濃淡や光彩、色味は幾十もの差がある。



この様々な新緑も時間がたてば変化が乏しくなり平板な印象に変る。



新緑の僅かな季節を愛でたいものである。







山肌という言葉があるが<木き>と<毛け>は関係があるらしい



遠目に山を見ると木が繁っているが、人間の肌に毛が生えていることと類推が働いて生まれたことばらしい。



こういう発想は現代人になはい。往時の日本人は遠目に景色を見るという感覚があったのだろう。そうでなければこうした言葉は生まれないにちがいない。現代人は眼の前の液晶ばかり見ているが。



漢詩の名句・名吟 (講談社現代新書)

漢詩の名句・名吟 (講談社現代新書)




老僧の読んでいた村上哲見「漢詩の名句・名吟」(講談社現代信書)をパラ読み。




千里鶯啼いて緑紅に映ず



杜牧の「江南春」は春を描出した名詩である。この時期に読むのには誠に相応しい。私も大好きな漢詩である。



少し疑問なのは日本人の感覚なら「緑が紅に映じる」というより「紅が緑に映じる」



となるはずだがどうなのだろうか…













夕方、作務をしていると大きなリュックを背負った男性が来寺。年齢は30代半ばだろうか。頭に白いタオルを巻き、がっつり歩いてこられた感じがする。




御朱印を求められたので少しお話していると東京から来られた方で西国札所を回られているとのこと。



JRを乗り継ぎ駅からお寺までは徒歩で回られているという。



松尾寺駅から松尾寺まで歩いて参拝し、当寺に立ち寄られた。




帰りは松尾寺駅からJRで亀岡まで行き、21番札所の穴太寺を目指されるとのこと。




昨年は徒歩で四国八十八ヶ所を回られたというのでいよいよ感心してしまった。



境内を拝観されて戻ってこられたが、JRの時刻にはまだ余裕があるのでコーヒーを淹れてすすめた。



玄関前の床机で新緑を見ながら2人で取りとめない話をしていると、少しかげった日差しが新緑に映えてとても綺麗だった。




圧倒的な新緑のなかで見ず知らずの方とお話するというのも得がたい時間だと感じた。






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