施餓鬼
本日、3カ寺の施餓鬼法要をもって今年のお盆の法務がすべて終了。
一息つきたいところである。やれやれ…
事務能力のないのが私の欠点で、山寺で供養した塔婆は10本もないのだがその僅かな塔婆が1本不明になり多いに反省。
とりあえずは大きな失敗も無く?、今年のお盆を無事に終えることができた。
お盆を手伝って下さった檀家さん、家族に感謝九拝。
餓鬼という存在への供養が行われるのが施餓鬼法要である。
餓鬼の絵図を見ると、腹部が膨満して描かれることが多い。
実際、栄養不良から腹部が腹水により膨満することが良く知られているように、餓鬼が表現しているのは飢餓(飢渇)であるのだろう。
供養されることのない存在、あるいは、生前の強欲により餓鬼に堕すと飲食ができずに激しい飢餓飢渇にあえぐとされる。
餓鬼という哀れな存在を供養することを通じて功徳を積み、その功徳を先祖に振り向けることが施餓鬼供養の目的のひとつである。
今年、施餓鬼供養について感じたのは、餓鬼が表しているものが改めて人間の貪欲であることを気付かされたということである。
もっと欲しい、これでは足りないという強い欲が人間のなかには存在する。
実は人間の不幸の多くはこの欲に発して引き起こされることが多い。
多くの不幸は自らの欲によるものである。
そうした心は誰の心にも存在している。そしてそのことが間違いなく私たちの不幸の種となっている。
餓鬼を供養するとは自らの(もちろん私自身の)餓鬼なるものに気付き、それを施す心によって超えてゆくということを表しているように思う。
餓鬼を供養するとは自ら(自らのなかの餓鬼を)を供養するのだと思うとこれまで行ってきた施餓鬼法要がまた違って感じられたように思う。
娘が境内にカブトムシを獲りに出かけたら大きな樹の根本にカブトムシやクワガタの残骸がごっそり捨てられていたそうだ。
殆どが頭部以外を食べられ、あるものは頭部だけになっても脚を動かしていたそうである。
これも餓鬼の仕業…などということはないだろうが、どんな動物がいるのだろうか。
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