私の柚子

     山寺のスピリチュアル問答


今日は昼前から雨が降り始め、三時頃ようやく上がった。

駐車場の横に柚子の木が一本ある。
柚子が色づく頃は一番参拝が多い時期で、不心得物のよっていつもひとつ残らずもぎ取られてしまう。
そこで今年は早く収穫しようということになり、雨上がりに柚子を採った。
剪定バサミで柚子の果実を摘むと柚子のいい匂いがする。ちょっとした柚子風呂の気分である。まだ少し青みがかった柚子はなんとも綺麗である。

車での参拝が増え、境内や裏山から花木や石などを勝手に持って行く者が増えている。
少々蕗を摘むくらいならかわいいが、クレーン車で川の石を吊り上げてもっていき庭石にするなどという者までいる。そういう者達はある程度痛い目に逢ってもらわないと何年でも、同じことを繰り返し続けるのでタチが悪い。

そういったことに心を煩わしているとふと思うことがある。
これは自分のものだという感覚や感情というものがつくづくと人間の根っこにあってその人生を縛っているということである。

古代のインドではさまざまな教説を説く集団が数十もあり釈尊もその一人であった。

成立当時の仏教に最も近いとされたのはジャイナ教という教えである。
ここでは無所有という思想から衣服すら持たず、裸で修行するとされたようである。現代のインドでもこのジャイナ教徒はかなりの数にのぼり、実際に裸で修行する者も多い。

この無所有という思想は仏教でも同じように説かれた。僧侶は最低の食事、最低の衣服、最低の住居で過ごすことを求められたのも同じ発想ではないだろうか。私達僧侶が身に付ける袈裟は「糞掃衣」という別名でも呼ばれる。本来は人々が捨てたような布で作った衣というほどの意味だと思う。「便所の雑巾で作った服」くらいの意味だろうか。

裸で修行というとぎょっとするが、現代の僧侶が身にまとっている袈裟ももとは同じ発想で作られたと思うと興味深い。

昨年は柚子が不作で全く採れなかった。今年はよく実っているようである。
「この柚子の木は私のものだ」と言うことはできるが、その実りは気候をはじめとして、人間ではどうしようもないことがらに左右される。果実を動物に食べられたり、病気で木が枯れることもある。自然の大きな営みの一部としてたまたま私の手元に残った柚子の実を「私の柚子の木から採れた私の柚子」と呼ぶ。

今の日本人はこの所有という感覚にがんじがらめに縛られているようである。
自分の所有するものを失った悲しさ、失うのではないかという恐れに私達は日々苛まれている。

「これは本当に私のものか?」時々ふとそんな問を投げかけてみる。