怪獣映画の想い出

   山寺のスピリチュアル問答

 滋賀県のお寺さんと電話で話したら、鹿が大繁殖して、お寺の植えた花木の苗を片っ端から丸裸にしてしまい大変な被害だという。私の住んでいる山寺も昔は大変に鹿が多かったらしく山号にも「鹿」という文字が入っている。最近は昼間でも山の奥から鹿の鳴き声が聞こえるよになって、ますます秋の深まりを感じる。

 先日、5歳の甥と映画を見に行った。「仮面ライダー電王」と「ゲキレンジャー」の2本立てである。ちょうど私がこの甥の年齢に藤岡弘主演の仮面ライダーが始まった。戦隊ものの最初である「ゴレンジャー」もリアルタイムで見ている私としては、特撮技術の進歩に少々驚いたが、童心に返って大いに愉しんで映画を観た。

 家に帰って家族と話をした時にふと母が「あなたもKちゃんに随分、怪獣映画に連れて行ってもらったわね」と言った。Kちゃんというのは母の末の妹で、私の伯母にあたる。  怪獣映画へ行った記憶は沢山あるのだが、私はこの伯母と映画を見に行った記憶が全然無いのである。例外として一つだけこの伯母との映画の想い出がある。それはある怪獣映画(確か「ゴジラ対ヘドラ」だと思う)へこの伯母と行った時、映画館の前が親子連れの長蛇の列で、伯母が諦めて引き返したのだった。楽しみにしていた私は大泣きし、伯母をなじった。

 母によればこの伯母と随分映画に行ったはずなのだが、私には全く記憶が無い。それでいて、映画を観られなかったこと、或いは、伯母が映画を観せてくれなかったことだけが強く記憶に残っていることが興味深く感じられた。

 延々と何かしてもらったことは忘れていて、たまたま何かをしてもらえなかったことを覚え続けているというのはちょっと怖い話であるし、同時に私たちの一面の真実かもしれないと思う。

 私達は「コンプレックス」とか「トラウマ」という言葉を随分と簡単に使っている気がする。こういった一連の言葉は<私は傷ついた>、<私は可哀想である>、<私は被害者である>といった意識を常に私たちの意識に上らせ、またそういったものの見方を意識の上に固定していく。

 例えば<傷つく>という意識の対極には<満たされる><癒される><喜び>といった感情があると思うが、傷ついた自分像というべきものが大きくなりすぎると少々のことではそのネガティブな感情を埋められなくなる。

 私達は過去の記憶、とりわけ不快な記憶を真実だと思っているが時には私自身の狭いものの見方が作り出したのではないかと疑問に思うことがある


 私達は間違いなく自分の心というものを実感して生きている。但し、自分の心、自分の意識というものを冷静に、或いは全く別の角度から観てみるという経験は殆ど無いのである。

 以前、ある女性と2時間以上話をしていて延々といろんな話が出てくるのだが結局その内容は「あの人が悪い」と「私は悪くない」という2つしかなくてホントにぐったりしたことがある。私達は様々な感情や考えの中にいるが、実はなんらかのパターンの中に陥っていないかということも点検してみる価値があると思う。

 自分のものの見方を離れることはとても難しい。しかし、本当に幸せになろうと真剣に思うならそれは避けては通れない道である。